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[ヒロシマの空白 被爆76年 証しを残す] 弟気遣う便り 絶筆に 一中生の7通 真っすぐな心情つづる

遺品 にじむ親の無念

 1945年8月6日の原爆により命を絶たれた学徒が、被爆前に疎開先の母と弟に送ったはがきや手紙が残されていた。書いたのは広島一中(現国泰寺高、広島市中区)3年だった大土茁(いずる)さん=当時(15)。離れて暮らす家族を思いやり、国に尽くそうとする真っすぐな学徒の心情をつづった便りは、理不尽にも少年の絶筆となった。(明知隼二)

 「孝ちゃんお元気ですか。僕も元気で毎日工場に行って居ます。孝ちゃんも少しは友達が出来(でき)ましたか」(4月20日)。

 45年4~6月ごろのはがきと手紙の計7通。いずれも父省三さんと暮らす尾長町(現東区)の自宅から、現在の東広島市に疎開した母松枝さんと弟孝さんに宛てていた。端正な筆跡の文面からは、疎開したばかりの3歳下の弟を気に掛ける兄の姿が浮かぶ。

部品工場に動員

 茁さんは現在の西区にあった航空機部品工場に動員されていた。「僕達も飛行機増産の一翼をになふ為(ため)、近日中に残業を始める」(5月19日)。米軍がまいた宣伝ビラには「此(こ)んな馬鹿(ばか)な物にまよわされは致しません。此の戦争に勝ちぬく為(ため)に大いに頑張りませう」(日付不明)と戦時下の学徒らしい意気をつづる。

 「広島の空襲も間近でせう」(6月23日)。そう記した1カ月半後の8月6日、茁さんの学級は爆心地から約800メートルの小網町(現中区)一帯で、建物疎開作業に動員されていた。

 省三さんはその日からの様子を遺族会の手記集「追憶」(54年)に寄せている。南観音町(現西区)の勤務先から警防団の制止を振り切って市中に入り、茁さんを捜し回った。翌夕、己斐国民学校(現己斐小、西区)でようやく見つける。顔や手に重いやけどをしていたが「お父さんが爆撃を受けられたのではないかと心配していました」と、逆に無事を喜んだ。

 自宅に連れ帰り看護したが、茁さんは10日未明、疎開先から駆け付けた松枝さんの手を握り、息を引き取った。「おい増田君、生産命令が出た」とのうわ言が最後の言葉だった。

 「大土君も私たちも『国のため』と純真そのものだった」。同じ学級だった須郷頼巳さん(91)=東区=はそう語る。7月下旬、海軍飛行予科練習生を志願して防府市に移り、被爆を免れた。級友による後の独自調査によれば、クラス59人のうち42人が被爆死した。

心境は口にせず

 省三さんは48年、孝さんも事故で失い、茁さんとも親しかった親戚の博之さん(92)=東広島市=を養子に迎えた。「思い出しては頭も張り裂けん許(ばか)りに苦しむ自分が、よくも気が狂わずに、今日ま(で)生きておることだ」。省三さんは親の壮絶な心境も記したが、口にはしなかった。「養子である私への気兼ねもあっただろう」。博之さんはそう推し量る。

 省三さんは87年、松枝さんは96年、いずれも80代で亡くなった。自身も被爆者である博之さんは受け継ぎ守る遺品に、一緒に遊んだ茁さんの懐かしい姿と、自らも目撃した被爆者の痛ましい姿を見る。「戦争も原爆も絶対に許されてはいけない」。少年の私信は今も、子を亡くした父母の無念を伝えている。

(2021年8月6日朝刊掲載)

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