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社説・コラム

社説 ヒロシマ76年 核抑止の神話 打ち破れ

 米国が広島に原爆を投下して、きょうで76年になる。街は焼け野原と化し、1945年の末までに13万~15万人が亡くなった。何とか年を越せた人たちも不安を抱えながら生きることを強いられた。

 同じ苦しみを他の誰にも味わわせたくない。それには、核兵器をなくすしかない―。被爆者のそんな願いや訴えを踏まえた核兵器禁止条約が今年1月に発効した。使用はもちろん、開発や保有、威嚇まで禁じる初の国際規範で、先月末までに55カ国・地域が批准している。

人類滅ぼす恐れ

 ここに至るまで、二つの考え方のせめぎ合いが繰り返されてきた。

 一つは原爆を落とした側の考え方である。破壊力の大きさしか見ようとはせずに、放射線による被害の実態などは過小評価してきた。

 もう一つは、きのこ雲の下で人間がどうなったかを見据え、放射線による被害も含めて、警告を発する立場である。核兵器を単に威力を増した爆弾ではなく、人類を滅ぼしかねない、従来とは異なる危険な兵器だとの認識に立つ。その発想は核兵器禁止条約にも反映されている。

 対立は、原爆投下直後から始まっていた。例えば、米国政府が原爆被害の実態を隠そうとしていた一方で、明らかにしようと努めた人たちがいた。その一人が米国のジャーナリストのジョン・ハーシーである。原爆投下9カ月余り後の広島を訪れ、流川教会の谷本清牧師ら6人に被爆体験を聞き書きしたルポ「ヒロシマ」を世に問うた。今月で75年になる。

 被害の実態を明らかにした記事を一括掲載した雑誌「ニューヨーカー」は初日に30万部を売り尽くした。全米の130紙にも転載され、世界10カ国語に翻訳された、という。

 ニューヨーク大学主催の選考で、20世紀のジャーナリズム活動ベスト100の1位にもなった「ヒロシマ」の今日的意義に昨年夏、改めて光が当たった。米国のジャーナリスト、レスリー・ブルーム氏のノンフィクション「フォールアウト」が出版されたのである。

 原爆被害を隠そうとする米軍や連合国軍総司令部(GHQ)の規制をどうやってくぐり抜けて広島に入り、生存者への取材に成功したのか。世界的名著を生んだ背景に迫った内容は全米で話題になり、高い評価も受けた。先月、「ヒロシマを暴いた男」との題で邦訳が出た。

 原爆に対するハーシーの考えには、ぶれが見えない。広島への投下を知った時は絶望感に圧倒される。犠牲者への同情や罪悪感からではなく、世界全体の未来に対する恐怖だったという。人類の存続を左右しかねないとの思いがあったに違いない。原爆についての揺るがぬ考え方を持っていたからこそ、世界中の人々の心をつかむ描写ができたのではないか。

世界守った記憶

 85年に広島を再訪した時は、こんな言葉を残している。45年以来、核戦争の大惨事から世界を守ってきたのは、広島・長崎で起きたことに対する人類の記憶だった、と。核抑止の神話が平和や安定をもたらしたわけではないというのだ。被爆者とも共通する見方だろう。

 「ヒロシマを暴いた男」を書いたブルーム氏は本のエピローグに、こう記している。21世紀最大の悲劇は、われわれが20世紀最大の悲劇、つまり広島、長崎への原爆投下からほとんど学ばなかったことになるかもしれない、と。核兵器の危険は今も解決していないからだ。

 もちろん、広島、長崎の訴えに耳を傾け、学ぶ人も多い。人類の自滅を避けるには、核兵器廃絶のほかに道はないとの考えに対する共感や理解の広がりが、禁止条約につながったのではないか。

 問題は、各国の政治家をはじめ核抑止論に固執する人たちだ。禁止条約にも、そっぽを向いている。相手より多く強力な武器を持とうという「今だけ」「自分だけ」しか視野に入っていない危うい発想ではないか。それで得られる平和と安定がいかにもろいか。少なくとも長続きはするまい。原爆詩人、峠三吉の求めた「くずれぬへいわ」には程遠い。

 核兵器禁止条約の発効を機に、保有国はもちろん「核の傘」の下にいる国々も核抑止の神話を打ち破る時ではないか。「今だけ」「自分だけ」良ければ…との発想を捨て去り、全人類的な視点で考えるよう意識を変えなければならない。

地球規模の浪費

 ところが今、鍵を握る大国の指導者たちは地球規模の発想も自制心も欠く。スウェーデンのストックホルム国際平和研究所(SIPRI)によると、2020年の世界の軍事費の推計額は1兆9810億ドル(213兆円)と過去最高を記録した。新型コロナウイルスのパンデミック(世界的大流行)の中でも、前年より2・6%増えている。東西冷戦の終結が宣言された後の1990年に比べ、1・4倍になった。

 コロナ禍の中、全人類的な視点で協力して立ち向かうべき時なのに、軍事費に巨費を投じるとは、地球規模の浪費でしかない。正気の沙汰とは思えない。

 たった一発の原爆で広島を壊滅させたときから人類は滅亡への第一歩を踏み出した…。今年1月に亡くなった作家の半藤一利さんは原爆について、鋭い警告を発している。「制御できない“死の兵器”を自分たちの手で作り出したから核兵器廃絶の道以外に人類の明日はない」

 原爆の惨禍を知る広島ゆえに、全人類のために果たすべき責務がある。自滅を避けるため、核抑止神話の虚妄を打ち破る先頭に立つことである。

(2021年8月6日朝刊掲載)

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