「原爆投下直後の放送」奮闘録 NHK技手・故森川さんの日記公開
13年8月5日
原爆投下で広島中央放送局(現NHK広島放送局)も壊滅的な打撃を受けた。技手だった森川寛さん(1974年、63歳で死去)の被爆直後からの日記を、長男高明さん(74)=広島市西区=が公開した。「兎糞(とふん)録 昭和廿(にじゅう)年」。1945年8月6日からの記述を抜粋して読み解く。(編集委員・西本雅実)
八月六日 出勤して演奏所(上流川町=現中区幟町=にあった広島中央放送局)の玄関に入り、二階に上る階段の踏(み)場に立つた時バツと下から爆風が来て倒れた/あたりは何も見えぬ。その時二階より自分にぶつかり来た者がある/『間島だ。やられた』/初めて敵の空襲と解(わか)つた。時正に午前八時十分過きなり(間島輝夫放送部副部長は直後に死去)
(放送局前の)道を右往左往するものは此(こ)の世のものとも思へぬ血だるまの形相が叫びながら親を呼び、子を呼ぶ/重傷の田中(保男)現業課長と相談して職員に原放送所に待避を命ず。調整室で各(放送局へ)連絡を呼べど応答なし。放送所のみ通ず(田中課長は9日死去)。
日本放送協会中国支部の上流川演奏所(スタジオ)と安佐郡祇園町(現安佐南区西原)の原放送所は28年に完成し、全国6番目のラジオ放送を開始。34年に広島中央放送局と改称。演奏所は爆心地の北東約1キロに当たり、「原爆被災誌 広島中央放送局」(66年刊)によると、出勤途中などを含め職員36人が犠牲となった
屋上で待避方向を見定めて流川を北上、泉邸(縮景園)西を回り(京橋川の)土手に出る/重軽傷者は川にととびこみあひ叫喚の生(き)地獄である/牛田を山手を迂回して工兵隊作業場、水源地を横切り(太田川の)渡(し)場を舟で渡り放送所に無事到着す。
直ちに中波及(び)短波で大阪を呼ぶと共に大阪打合線(局間の放送打ち合わせ線)で呼ぶ。幸ひ岡山より応答あり。早速大体の様子を連絡して、大阪より短波放送を依頼して各局に各種指令を出すと共に救援を乞(こ)ふ。
原放送所は、戦時中は日本放送協会のニュースをすべて配信した同盟通信(現共同通信)の広島支社が避難先と決めていた。中村敏記者(81年、72歳で死去)は「特殊爆弾投下 死者はおよそ17万人」と、原放送所から岡山放送局経由で東京本社に送ったが、本社は信じなかったと書き残している(「新聞研究」67年刊193号)
八月七日 家族達は心配して居るだらうと思つて、夕刻帰宅して河内村(現佐伯区)の病院に到着。無事なる姿を見て家族の喜ひは例へようなし。
森川さんは妻と子ども2人と天神町(現平和記念公園)に住んでいたが4月、八幡村(現佐伯区)に疎開。高明さんが肺炎となり、河内村の医院に妻子も移っていた
八月八日 (現西区南観音の)銃器庫は倒壊したままで焼失して居(お)らぬ/真空管は無事で己斐地下壕(ごう)に移す事とす/(義兄の)山崎夫妻は爆発の中心が天神町なので殆(ほとん)ど絶望と思はれる/市内を自転車で走つてみると死体は路傍に川に累々ところがり、惨状目を覆はしむ(山崎寿三、行子夫妻は爆死)
八月九日 市役所南広場に於(おい)て軍官民の戦災復旧に関する連絡会議に玉川(四郎平)技術課長と出席す(船舶司令部が主催)。司令官の指示事項(1)水道至急復活(2)通信至急復活(3)道路至急復活(4)死体の至急処理/(義兄の)山崎益太郎 長女孝子無事 尚(なお)次女仁子(さとこ)死亡(広島市女2年、父が見つけたが6日死去)。
八月十一日 下士(官)外三〇名来所。仙波(雄四)技手と共に午前中に(南観音の予備放送機器を)己斐中町の地下壕内に移した。
八月十五日 朝の報道の時にしきりに「本日正午時報に引(き)続き重大なる放送があるので国民は必ず聴くべし」放送した/正午となつた。全国起立せよと言ふ。
天皇陛下の御放送である。中継線の雑音で殆ど聴きとれなかつたが、その内容の只事(ただごと)ならざるものを感じた/声をたてて泣いた。日本は終(つひ)に敗れたのだ/(河内村から)原放送所に到着してみると皆悲壮な面持(おももち)で居る。未(いま)だ何事も具体的な指示は来て居ない。
八月十九日 本日県より砂糖二袋(約一〇〇斤袋=60キロ)の交付あり。去る六日以来の勤務振りに応じて職員に配給した/最高一貫目(3・75キロ)にして四五名のみ 八月二十八日 中継線依然として不良。逓信局幹部と交渉するもどうしても回復せず。
八月二十九日 広島(中央)電話局と交渉して/午後二時二五分演奏所と岡山間に別回線を構成してくれた。今夕より本回線で放送及(び)打合をなす。久(し)振りきれいな声の放送が聞(こ)える事となつた。放送所に宿直す。
九月一日 今日午前0時より放送技術者として苦心して来た電波管制により同一周波放送を中止し、全放送局は管制前の個々の周波数となつた/感慨無量である/広島(八三〇KC=キロサイクル)岡山(六三〇)松江(六八〇)鳥取(八九〇)防府(一一六〇)…。
適宜、句読点を入れ、旧漢字は改めた
「幻の声 NHK広島8月6日」(92年刊)の著者、白井久夫元NHKディレクター(横浜市)の話
未曽有の事態の中で、放送中継線を確保して放送を切断させまいと、驚くべき努力をしたのが日記からも分かる。終戦となり、報道統制から同一だったエリアごとの周波数がいつ変わったのかも正確に記している。整理して後で付け加えた部分もあるかと思うが、原爆からの放送業務をめぐる空白部分を埋め、後のおかしな証言も正す記録でもある。全文を詳しく調べてみたい。
(2013年8月5日朝刊掲載)
8月6日 火炎脱出し放送所に
8月29日 久し振り きれいな声
八月六日 出勤して演奏所(上流川町=現中区幟町=にあった広島中央放送局)の玄関に入り、二階に上る階段の踏(み)場に立つた時バツと下から爆風が来て倒れた/あたりは何も見えぬ。その時二階より自分にぶつかり来た者がある/『間島だ。やられた』/初めて敵の空襲と解(わか)つた。時正に午前八時十分過きなり(間島輝夫放送部副部長は直後に死去)
(放送局前の)道を右往左往するものは此(こ)の世のものとも思へぬ血だるまの形相が叫びながら親を呼び、子を呼ぶ/重傷の田中(保男)現業課長と相談して職員に原放送所に待避を命ず。調整室で各(放送局へ)連絡を呼べど応答なし。放送所のみ通ず(田中課長は9日死去)。
日本放送協会中国支部の上流川演奏所(スタジオ)と安佐郡祇園町(現安佐南区西原)の原放送所は28年に完成し、全国6番目のラジオ放送を開始。34年に広島中央放送局と改称。演奏所は爆心地の北東約1キロに当たり、「原爆被災誌 広島中央放送局」(66年刊)によると、出勤途中などを含め職員36人が犠牲となった
屋上で待避方向を見定めて流川を北上、泉邸(縮景園)西を回り(京橋川の)土手に出る/重軽傷者は川にととびこみあひ叫喚の生(き)地獄である/牛田を山手を迂回して工兵隊作業場、水源地を横切り(太田川の)渡(し)場を舟で渡り放送所に無事到着す。
直ちに中波及(び)短波で大阪を呼ぶと共に大阪打合線(局間の放送打ち合わせ線)で呼ぶ。幸ひ岡山より応答あり。早速大体の様子を連絡して、大阪より短波放送を依頼して各局に各種指令を出すと共に救援を乞(こ)ふ。
原放送所は、戦時中は日本放送協会のニュースをすべて配信した同盟通信(現共同通信)の広島支社が避難先と決めていた。中村敏記者(81年、72歳で死去)は「特殊爆弾投下 死者はおよそ17万人」と、原放送所から岡山放送局経由で東京本社に送ったが、本社は信じなかったと書き残している(「新聞研究」67年刊193号)
八月七日 家族達は心配して居るだらうと思つて、夕刻帰宅して河内村(現佐伯区)の病院に到着。無事なる姿を見て家族の喜ひは例へようなし。
森川さんは妻と子ども2人と天神町(現平和記念公園)に住んでいたが4月、八幡村(現佐伯区)に疎開。高明さんが肺炎となり、河内村の医院に妻子も移っていた
八月八日 (現西区南観音の)銃器庫は倒壊したままで焼失して居(お)らぬ/真空管は無事で己斐地下壕(ごう)に移す事とす/(義兄の)山崎夫妻は爆発の中心が天神町なので殆(ほとん)ど絶望と思はれる/市内を自転車で走つてみると死体は路傍に川に累々ところがり、惨状目を覆はしむ(山崎寿三、行子夫妻は爆死)
八月九日 市役所南広場に於(おい)て軍官民の戦災復旧に関する連絡会議に玉川(四郎平)技術課長と出席す(船舶司令部が主催)。司令官の指示事項(1)水道至急復活(2)通信至急復活(3)道路至急復活(4)死体の至急処理/(義兄の)山崎益太郎 長女孝子無事 尚(なお)次女仁子(さとこ)死亡(広島市女2年、父が見つけたが6日死去)。
八月十一日 下士(官)外三〇名来所。仙波(雄四)技手と共に午前中に(南観音の予備放送機器を)己斐中町の地下壕内に移した。
八月十五日 朝の報道の時にしきりに「本日正午時報に引(き)続き重大なる放送があるので国民は必ず聴くべし」放送した/正午となつた。全国起立せよと言ふ。
天皇陛下の御放送である。中継線の雑音で殆ど聴きとれなかつたが、その内容の只事(ただごと)ならざるものを感じた/声をたてて泣いた。日本は終(つひ)に敗れたのだ/(河内村から)原放送所に到着してみると皆悲壮な面持(おももち)で居る。未(いま)だ何事も具体的な指示は来て居ない。
八月十九日 本日県より砂糖二袋(約一〇〇斤袋=60キロ)の交付あり。去る六日以来の勤務振りに応じて職員に配給した/最高一貫目(3・75キロ)にして四五名のみ 八月二十八日 中継線依然として不良。逓信局幹部と交渉するもどうしても回復せず。
八月二十九日 広島(中央)電話局と交渉して/午後二時二五分演奏所と岡山間に別回線を構成してくれた。今夕より本回線で放送及(び)打合をなす。久(し)振りきれいな声の放送が聞(こ)える事となつた。放送所に宿直す。
九月一日 今日午前0時より放送技術者として苦心して来た電波管制により同一周波放送を中止し、全放送局は管制前の個々の周波数となつた/感慨無量である/広島(八三〇KC=キロサイクル)岡山(六三〇)松江(六八〇)鳥取(八九〇)防府(一一六〇)…。
適宜、句読点を入れ、旧漢字は改めた
中継線確保へ驚くべき努力
「幻の声 NHK広島8月6日」(92年刊)の著者、白井久夫元NHKディレクター(横浜市)の話
未曽有の事態の中で、放送中継線を確保して放送を切断させまいと、驚くべき努力をしたのが日記からも分かる。終戦となり、報道統制から同一だったエリアごとの周波数がいつ変わったのかも正確に記している。整理して後で付け加えた部分もあるかと思うが、原爆からの放送業務をめぐる空白部分を埋め、後のおかしな証言も正す記録でもある。全文を詳しく調べてみたい。
(2013年8月5日朝刊掲載)