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連載・特集

被服支廠は私たちを見ている 対談 絵本に託す思い

黒田征太郎さん 絵と希望で人々つなげる

中西巌さん 次世代へのアピール期待

 あの建物は生きている―。広島・長崎をテーマに創作を続けるイラストレーターの黒田征太郎さん(82)と、広島市南区の被爆建物「旧陸軍被服支廠(ししょう)」で被爆した中西巌さん(91)が対談した。被服支廠をテーマにした絵本の出版に向け黒田さんが描きためたスケッチを眺めながら、核兵器廃絶と平和への思いを語り合った。(文・西村文、写真・河合佑樹)

◆建物の印象

 黒田 知り合いに勧められ、被服支廠を初めて訪ねたのは3月下旬だった。最初、窓枠をスケッチしていたら勝手に手が「目」を描いていた。壁が生きていて、自分を見ている感じがして仕方がなかった。4日間、壁に向き合って描き続けた。

 中西 「壁が自分を見ている」と言われたことが、私の胸に響いた。あの場所で亡くなった人の数はいまだにはっきりせず、数百人から千人といわれている。15歳だった私と同じ世代がたくさんいた。どんなに無念だったろうかと。被服支廠は無言の被爆者。私は「あの建物は生きている」と言い続けてきた。

 奈良の小学生を案内した時、一人の女の子が壁をさすりながら小声でつぶやいていた。「痛かったんだろうね。熱かったんだろうね」と。純粋な子どもには分かるんだなあと、感動した。でも、大人は「単なるれんがの塊だ」と言う人もいる。

 黒田 とんでもない。どうして僕たち大人は、子どもの頃に感じたことを忘れてしまうのだろうか。

◆スケッチについて

 黒田 思いつくことを全部、どんどん描いていった。壁と向き合い、どっしりと闇が詰まっている感じがした。全ての窓が泣いているようにみえた。目ばっかり描いていて、ふと地べたを見ると、きれいな草花が咲いていた。それもスケッチした。

 中西 建物の中で苦しみながら亡くなった人たちに、これらの絵を見せてあげたい。

 ドーンと爆風が来たとき私はたまたま建物の陰にいて無傷だった。黒田さんは亡くなった方々の魂の象徴として目を描かれたのだと感じた。実際の被爆者は顔がボールみたいに腫れ上がって、目は線のように細くなっていた。目玉が飛び出た人もいて悲惨だった。

◆核兵器廃絶を願って

 中西 絵本の出版は本当にありがたい。2年前、(広島県の財政的な問題などで)被服支廠を2棟解体する案が出て、一生懸命反対してきた。絵本がいろんな人の目に留まって、被服支廠の保存、核兵器廃絶に役立つと信じている。若者や子どもにアピールする貴重なものになる。

 黒田 お金がないから悲惨な歴史を伝えていくことをやめようなんて、冗談じゃない。やれることはある。やらないと、文化もアートも絵空事になってしまう。絵がお役に立てば、うれしい。小さな絵、小さな希望によって人々がつながっていければいい。「核兵器ってまだあるの?」と言える世の中にならないといけない。

くろだ・せいたろう

 1939年、大阪市生まれ。ポスターや書籍、壁画制作など幅広く活動。92年から18年間、米ニューヨークで暮らした。命の尊さをテーマにした絵本など著書多数。広島・長崎の被爆体験を継承し行動する「PIKADON PROJECT」発起人の一人。北九州市在住。

なかにし・いわお

 1930年、広島市生まれ。広島高等師範学校(現広島大)付属中4年時、学徒動員中に被服支廠で被爆した。原爆資料館のピースボランティアや被爆体験証言者として活動。2014年「旧被服支廠の保全を願う懇談会」をつくり、代表を務める。呉市在住。

旧陸軍被服支廠(ししょう)

 旧陸軍の軍服や軍靴を製造していた施設。1913年完成で、爆心地の南東2・7キロにある。13棟あった倉庫のうち4棟がL字形に残り、広島県が1~3号棟、国が4号棟を所有する。県は今年5月、従来の2棟解体、1棟の外観保存案を事実上転換し、所有する全3棟を耐震化する方針を示した。

 対談は6月25日、呉市で市民団体「被服支廠絵本化プロジェクト」(広島市南区、稲田恵子代表)が開いた。絵本は今冬、東京の出版社から刊行予定。

(2021年8月6日朝刊掲載)

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