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連載・特集

しんちゃん支える 妹の決意 原爆小頭症の兄 中井さんが初めて語る夏

向き合えなかった日々 「きのこ会」が光

 母親のおなかの中で原爆に遭い、重い障害を負った人は「原爆小頭症被爆者」と呼ばれ、全国に15人いるとみられる。76年前のきょう、広島市で胎内被爆した中井新一さん(75)=横浜市=は、その一人だ。妹さん(70)が今夏、一家の記憶を初めて語ってくれた。核被害のむごさが伝わるのなら、と。原爆にゆがめられた人生を懸命に生きてきた家族の歩みが、そこにあった。(田中美千子)

 「しんちゃん」。葉子さんは兄をそう呼ぶ。両親はとうに亡くなり、郊外のマンションで2人暮らし。兄は週4回、バスで約30分の福祉作業所へ通う。家ではテレビの時代劇や作業所で覚えた刺しゅうを楽しみ、食後は皿を洗ってくれる。温和で優しい兄と過ごす毎日は今、穏やかに流れる。

奪われた家族・右目

 しかし、道のりは険しかったという。「原爆という言葉を聞くのも嫌でした」と葉子さん。両親が過去を語ろうとしても、耳を貸そうとしなかった。「あまりに悲惨だし、遺伝の不安を思い出してしまう。あの日に向き合えるようになったのは、つい最近なんです」

 1945年8月6日、一家は爆心地から約700メートル西の自宅にいた。父武夫さん=当時(31)=が仕事を替え、大阪市から新市町(現中区榎町)に越してきたばかり。25歳の身重の母トミエさん、5歳と3歳の女の子の4人家族だった。

 原爆は武夫さんの腕を焼いた。トミエさんの顔や体には無数のガラスが突き刺さった。2人とも後遺症で吐血し、髪も歯も全て抜け落ちた。長女典子(ふみこ)さんは翌月、息を引き取った。

 翌46年の元日に誕生した新一さんの体にも、核被害が刻まれていた。右目奥に腫瘍が見つかり、1歳になる前に眼球を摘出した。重い知的障害があり、読み書きや計算ができない。小学校には1年生の1学期しか通えなかった。

 葉子さんは、その5歳下だ。物心ついた頃から、兄は家族の真ん中にいたという。「心ない言葉をぶつけてくる人もいる。両親が大事に守っていました」。それなのに―。引っ越し先の横浜市で、小学生になった葉子さん。友人が家に遊びに来ると、こう言ってしまった。「しんちゃん、あっちの部屋に行っておいて」

 傷ついたのは自分自身だった。「何も悪くない兄を隠そうとした。自分が嫌になって」。だから、知的障害がある兄の存在を自ら周りに伝えるようになった。

「結婚しない人生」

 つらい思いもした。20代半ばで婚約したが、兄に引き合わせると相手は去っていった。「新一を連れて私も死ぬ」。温和な母が、そんな言葉まで口にした。いつしか、葉子さんは心を決めていた。「結婚しなくても私の人生。兄をみていけるのは自分しかない」

 小頭症かもしれない―。兄が40歳を過ぎた頃、そう気付いたのも葉子さんだ。被爆地から遠く離れた地。国が20年も前、原爆症に加えた疾病であることはもちろん、その名称さえも知らなかった。偶然、小頭症という言葉を知り、ぴんときた。新一さんも頭囲が小さく、どんな帽子もぶかぶかだったからだ。

 医師の診断書などを提出してから2年後の89年、兄は認定被爆者になった。この「一歩」が、後に思いがけない縁をたぐり寄せる。

 新一さんの行く末を最期まで案じていた両親も、原爆を生き延びた2番目の姉由美子さんも亡くなり、兄妹二人きりになった2019年春のこと。葉子さんは神奈川県庁から、1本の電話を受ける。広島市の小頭症被爆者や家族たちでつくる「きのこ会」の会報を届けてくれる、という。

24年ぶりの新会員

 「この出会いが私たちの人生の珠玉の一ページになりました」。葉子さんは力を込める。「一人じゃないんだと思えた。原爆に向き合う力をもらったんです」

 きのこ会は長年、仲間を捜してきたが、個人情報の壁がある。そこで、該当者がいれば会報を送ってほしいと、各自治体に働き掛けていた。長岡義夫会長(72)=安佐南区=たち役員はわざわざ、横浜まで会いに来てくれた。新一さんは実に24年ぶりとなる新会員に。20年秋には兄妹そろって広島市での総会に参加し、一家が被爆した地も歩いた。

 その直後だった。葉子さんは大病を患い、入院を余儀なくされる。幸い手術は成功したが、一時は死を覚悟し、遺書もしたためた。「兄の今後を思うとつらかった。心底、先には逝けないと実感しました」。同時に、こんな思いを強くしたという。「兄が生きた証しを残したい。被爆者としての姿を発信することが、彼が生まれてきた意味なのかもしれない、と」

 だから、家族の歩みを語っていく覚悟を決めた。広島にもまた、きのこ会の一員として足を運ぶつもりだ。新一さんも思いは同じらしい。仲間にもらった広島東洋カープの野球帽を見せてくれた。「行くもんね。これかぶってね」。葉子さんが隣で目を細める。「そうね、しんちゃん。また一緒に広島へ行こうね」

原爆小頭症の現状

 かつては「20歳までの命」とも言われた原爆小頭症被爆者。母親の妊娠初期に強力な放射線を浴び、知的、身体障害がある。厚生労働省が3月末時点で16人と公表した後、広島市では5月に1人が亡くなった。

 長年、社会の不理解にさらされてきた当事者や家族たちが「きのこ会」を発足したのは1965年。訴えが実り、政府は67年に「近距離早期胎内被爆症候群」の名称で小頭症を原爆症に加えた。会をけん引した親世代は全員が他界し、当事者も老いを深める。

(2021年8月6日朝刊掲載)

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