×

ニュース

四国五郎 体験つづる「戦争詩」 草稿ノートと清書原稿見つかる 大半が未発表 不条理にじむ

 峠三吉「原爆詩集」の表紙絵や絵本「おこりじぞう」の作画で知られる四国五郎さん(1924~2014年)が、自らの従軍体験をつづった詩編の草稿ノートと清書原稿が、広島市内のアトリエで見つかった。一兵士の目から見た戦争の姿を、短い言葉に凝縮させてうたっている。被爆地から反戦平和への思いを絵筆に託し、「市民画家」として親しまれた四国さんの「詩人」としての側面に光を当てる貴重な資料でもある。(論説委員・森田裕美)

 これらの詩編は、長男の光さん(65)=大阪府吹田市=がアトリエを整理していて発見した。表紙に「戦争詩」と大きく書かれたB5判のノートには、50編余りの詩が手書きされている。

 戦意高揚を目的とした戦中のいわゆる「愛国詩」ではなく、「戦場詩」に分類されるものだろう。母親との別れに始まり、入隊、旧満州(中国東北部)での軍隊生活、旧ソ連軍との死闘、敗戦までを記録映画のようにつづっている。詩集として編むつもりだったのだろうか。推敲(すいこう)を重ねた跡があり、作品には編集番号が振ってある。

 清書された原稿は、草稿のうちの40編で、書きかけだった可能性がある。B4判の用紙に丁寧に書かれている。手書き文字のままガリ版刷りでの出版を考えていたのか、真ん中にとじしろが取ってある。このうち5編は、四国さんが1970年に出版した「四国五郎詩画集 母子像」(広島詩人会議)に収められているものの大半は未発表だ。

日本の若き兵士らの屍体/しぼりたる洗濯物投げすてしごとく/はてしなく路上に散らばう/うつろなる眼あけしまま

 「夏草やつわものどもが夢のあと 芭蕉」と題した詩には、そんな情景が描かれている。戦争の不条理が生々しく伝わる作品や、戦友のひつぎを運ぶ悲しみを表現した作品もある。

 ノートの別ページに記された記述などから、草稿は60年代前半までに書かれたと推測されるものの、制作年は明らかではない。「母子像」に収められた詩に44年や45年の日付が記されていることから、当時創作したものもあれば、戦後に思い出しながら書いた詩もあるとみられる。

 四国さんは現在の三原市大和町に生まれ、広島市で育った。44年に徴兵され、戦地で敗戦を迎え、シベリア抑留を体験。48年に帰郷した広島で最愛の弟の被爆死を知り、怒りと悲しみを原動力に創作を続けた。

 戦後は広島市役所に勤めながら、峠らと詩誌「われらの詩(うた)」に参加したほか、今に続く広島平和美術展を画家仲間たちと創設。広島の戦後文化運動に欠かせない人だった。

 被爆体験記や市民団体の冊子などの表紙絵や挿絵、カレンダーや絵はがき…。頼まれれば「平和のためなら」と何でも快く受けていた。あまたの作品を残しているものの、自らの戦争体験のみを詩編として表現したものは見当たらない。

 「自分の中に深く刻印されてしまった戦争の記憶を早く吐き出してしまいたかったのかもしれない」。光さんはそう推し量る。加えて「表現者として、自らの戦争体験を詩だけで再構成する実験的な作品だったのではないか」とみる。

 いつ、どんな思いでつづったのか。なぜそのまま公表することがなかったのか―。そんな数々の「謎」を解くことが、私たちに残された役割なのかもしれない。

 光さんは「戦後76年たった今、出てきたことに意味を持たせたい。生前の父はいつも、作品が反戦平和のために活用されることを望んでいた。何らかの形で詩編全体を公表し、広く読んでもらいたい」と話す。

(2021年8月7日朝刊掲載)

年別アーカイブ