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医学生 生き残った意味は 命・被爆に向き合う原点 広島大1期生 原爆投下前夜に疎開

 76年前、その校舎は学生が授業を受けることなく原爆の火に焼かれた。1945年8月5日、広島市皆実町(現南区)で開校式をしたばかりの広島県立医学専門学校(広島医専)―。広島大医学部の前身だ。しかし1期生の大半は、5日夜に集団疎開し、直爆を逃れた。数奇な巡り合わせで始まった広島医学の源流を、1期生の手記やゆかりの人の話からたどった。(衣川圭)

 広島駅から芸備線で約50キロ。甲立(こうたち)駅にほど近い寺院の高林坊(安芸高田市)は、せみ時雨に包まれていた。100人を超す学生や教員が疎開した寺院は当時のままの威容を誇る。住職の福間高顯(こうけん)さん(70)は「学生はここで寝泊まりし、授業を受けたそうです」と案内してくれた。

 45年8月5日朝、学生たちは広島市皆実町の校舎で広島医専の開校式に臨み、その日の深夜に甲立駅へ降り立った。空襲の危険を感じた広島医専の校長が疎開を決断したからだ。

 たった1日の違いで、直爆の難を逃れた1期生たち。「疎開した学生はなぜ生き残ったかを問うて、戦後広島の医療を支えてこられたのだと思う」と福間さんは振り返る。

 惨劇は常にすぐ隣にあった。福間さんの曽祖父も巻き込まれた一人だ。5日、陸軍から一時帰宅が許された孫に会うために広島へ。面会もかなわないまま、6日に行方が分からなくなった。「1日違いで…」と福間さんは声を詰まらせる。

安佐市民病院の元院長 岩森茂さん

 高林坊で過ごした1期生の中には、その後も足を運ぶ人がいた。安佐市民病院(広島市安佐北区)の院長を務めた故岩森茂さんは「疎開で命を救われた」と、福間さんの曽祖父の七十回忌にも来てくれたという。

 母と姉を広島に置いて疎開した岩森さんは、6日に帰宅が許された。手記にその時の様子を残している。

 ≪すっかり焼野原、瓦礫(がれき)の山と化した市内を、焼けただれている瓦をふみながら息つく暇もなく吾(わが)家のあたりに辿(たど)りついた(広島県医師会「原爆日記」)≫

 家族とは再会を果たすも、広島での出来事は脳裏を離れない。全身にやけどを負い、黒くなった少女に「水をちょうだい」と哀願され、口に含ませると「あ、り、が、と、う」と漏らし息を引き取った。水を与えなければ生きる可能性があったのか―。

 ≪私の医学の習得が深まるに従い暗い思い出となってよみがえってくるのである(同)≫

 入市被爆した岩森さんも脱毛や下痢に悩まされた。別の手記にはこう記す。

 ≪広島原爆史を直接反映しながら(中略)医学生として苛酷(かこく)ともいうべき運命の波にほんろうされながらそれでも志向するところを失うことなく生き続けた(「広島大学医学部三十年史」)≫

呉市の内科医 岸槌(きしづち)昭夫さん

 広島医専の設立の背景には軍医不足があった。軍都として街が急拡大した広島も医師が少なかったという。芳しくない戦況も伝わる中、医専を受験したのは、医学を純粋に志した学生ばかりではなかった。

 「医学生は兵役免除があるからと言うてね」。呉市の内科医岸槌昭夫さん(93)は、小学校長をしていた父親に勧められて受験。校長の父すら陸軍に召集される「非常事態」だった。

 岸槌さんは、6日夕には原爆被災者が甲立駅に続々と着き、助けに行ったと記憶する。ただ、より鮮明に覚えているのは食糧難だ。「あの頃はとにかくおなかがすいて、栄養失調の寸前でした」と明かす。「なりたいと思って医者になったわけではないけど人生はそんなもん。患者さんの病気が良くなって『おかげさまです』と言われると一番うれしいんよ」

元原爆放射能医学研究所長 横路(よころ)謙次郎さん

 広島一中(現国泰寺高・中区)から岸槌さんと同級生だった故横路謙次郎さんも、父の勧めで入学した。広島大の原爆放射能医学研究所(現原爆放射線医科学研究所)所長となり、核戦争防止国際医師会議(IPPNW)の日本支部事務総長を長年務めた人だ。

 原爆投下3日後に高林坊から広島入り。広島逓信病院(中区)の焼け跡で医師団を手伝った。被爆者のがんを研究し、核戦争を防ぐ運動に取り組む「原点」となった。

 ≪毎日死ぬ患者、被爆者を解剖した。死体は体中いっぱい赤黒い皮下出血があった(中略)私が一番感じたことは、放射線の恐ろしさである(広島市医師会「ヒロシマ 広島 60年」)≫

 同じ時期にIPPNWの活動に携わった広島大の鎌田七男名誉教授(84)は「ゴールはツーサウザンド(2000年までに核兵器廃絶を)」と訴える横路さんの姿が印象深いと言う。その言葉の背景には横路さんが持ち続けた思いがあった。

 ≪ひとたび核戦争が勃発してからでは全てが手遅れであることをもう一度強調しておきたい(横路謙次郎「私の廣島」)≫

 1期生の大半が亡くなっているこの夏、高林坊住職の福間さんは切望した。「この寺に疎開した若者たちが、苦労しながら広島の医学と医療の歴史を紡いできたことを、今の若い人たちにも知ってほしい」と。

(2021年8月7日朝刊掲載)

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