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各地で慰霊祭 ヒロシマ8・6

毎年死没者名簿に祖父の名探す

弟が苦しんでいた姿 忘れられない

子や孫たちも追悼に訪れてほしい

懸命な治療続けた先輩方を悼む

  ◆原爆死没者慰霊行事(平和記念公園)
 広島戦災供養会が原爆供養塔前で営み、役員たち18人が参列。長引くコロナ禍で昨年同様、遺族や一般の参列者は仕切られたロープの外から見守った。毎年訪れている南区の吉田収さん(80)は、父鶴夫さんに思いを寄せた。比和町(現庄原市)で消防団員だった父は、救護のため入市被爆したが、96歳で亡くなるまで当時のことを家族にも語りたがらなかった。「父の気持ちを考えると、戦争は絶対に駄目だと思うんです」

  ◆国土交通省(旧内務省)原爆殉職者慰霊式(平和記念公園)
 原爆ドームそばの慰霊碑に、遺族や中国地方整備局の職員約20人が手を合わせた。安佐北区の吉村靖子さん(78)は、祖父の三吉恵作さんが行方不明のまま。太田川改修事務所(現太田川河川事務所)に住み込みで働き、あの日は建物疎開に出ていたという。毎年、原爆死没者名簿を確認する吉村さん。「当時の資料が発見されたというニュースもある。祖父の手掛かりが見つかれば」と願った。

  ◆広島郵便局原爆殉職者慰霊祭(南区比治山町)
 慰霊碑がある多聞院に参列した職員や遺族約70人が午前8時15分、鐘の音が響く中、犠牲者288人を悼んで黙とうした。佐伯区の廣藤武士さん(82)は今年も「父の遺志を引き継ぎたい」と出席。2000年に94歳で逝った父は、救急セットを肩から掛けて勤め先の郵便局に向かい、入市被爆した。「親しかった同僚や後輩の死を悲しんでいた」。慰霊祭の創設にも尽くした父に思いをはせた。

  ◆電気通信関係原爆死没者慰霊式(中区基町)
 遺族やNTT西日本の社員たち約40人が黙とうした。南区の大前勉さん(79)は一緒に暮らしていた叔父の大前昌雄さん(当時30歳)が、広島駅北側の東練兵場で通信業務をしており被爆死した。「父は翌日から捜しに行ったが、みんな黒焦げで遺骨も見つからなかったと話していた。尊い命を奪う原爆投下は二度とあってはならない」

  ◆県立広島第一高等女学校原爆犠牲者追悼式(中区小町)
 卒業生や遺族、流れをくむ皆実高の生徒約80人が慰霊碑に献花した。当時2年生だった府中町の村上美篭(みこ)さん(90)は涙を浮かべ「あの日、多くの同窓生が亡くなった。原爆症になり見送った人もいる。戦争は二度とあってはならない」と声を振り絞った。生徒会長の2年金本凜周(りしゅう)さん(16)は「先輩の思いを胸に、核兵器のない世界を実現する力になりたい」と決意を語った。

  ◆広島二中原爆死没者慰霊祭(中区中島町)
 広島二中(現観音高)の卒業生や遺族約50人が、亡くなった約350人の冥福を祈った。当時2年生の戸谷拓二さん(89)=中区=は、原爆投下の前日が爆心地近くでの建物疎開の作業だった。「1日違いで1年生が身代わりになってくれたようで、思い出すたびにつらい」。あの日、戸谷さんは広島駅近くに動員されて被爆し、顔にやけどを負った。「戦争はいけん」と語気を強めた。

  ◆原爆犠牲新聞労働者「不戦の碑」碑前祭(中区加古町)
 オンライン中継も活用して、新聞・通信社の社員の遺族や労組関係者約50人が参加。犠牲になった7社133人の名前を刻む碑前に約20人が献花した。中区の今田裕子さん(58)は、鉄砲町(現中区)の中国新聞販売店の集金係だった祖母レツさんを失った。これまで参列してきた母は、コロナ禍と猛暑への不安で今年は断念。「私の分も祈ってほしい」。母に託された思いを胸に手を合わせた。

  ◆嵐の中の母子像供養式(中区中島町)
 広島市地域女性団体連絡協議会の役員8人が、原爆資料館の南側にある像の前に千羽鶴と花束を手向けて黙とう。例年は会員50~100人が出席するが、コロナ禍の中、昨年に続いて参列者を絞った。月村佳子会長(77)=西区=は「平和を求める母親の思いを後世に引き継ぐ使命がある。供養式の規模は小さくなったが、しっかりつないでいく。きっと集えるときが来るはず」と前を向いた。

  ◆広島市立広島商業高原爆死没者慰霊祭(中区中島町)
 建物疎開中に亡くなった市立造船工業学校の生徒の遺族や、流れをくむ市立広島商業高の生徒たち約50人が参列した。商業高で校長を務めた中島克己さん(89)=佐伯区=は当時、工業学校1年。建物疎開に従事していたが、病気の祖父の見舞いで広島を離れ、被爆を免れた。「毎年この日が来るのがつらい。元気なうちはつえを突いてでもお参りする」。慰霊碑に刻まれた同級生らの名前をなでた。

  ◆旧制広島市立中学校原爆死没職員生徒慰霊祭(中区西白島町)
 流れをくむ基町高内の慰霊碑前で、在校生や教員、遺族、同窓会員たち約250人が献花した。東区の登世岡浩治さん(91)は「温厚な弟が全身やけどで苦しんでいた姿が忘れられない」と振り返る。当時12歳で1年生だった弟の純治さんは、小網町(現中区)で建物疎開中に被爆死した。「核兵器による悲惨な死が二度と起きないよう、戦争のない世の中が訪れてほしい」と願った。

  ◆広島市女職員生徒原爆死没者慰霊献花会(中区中島町)
 平和大橋西詰めの慰霊碑前に集まったのは、広島市立第一高等女学校(現舟入高)の卒業生や遺族約200人。建物疎開に動員された1、2年生541人を含む犠牲者676人に花を手向けた。碑のそばには舟入高生たちが折った千羽鶴を、生徒会長の2年平本咲世さん(17)がささげた。「私たちは被爆体験を聞ける最後の世代かもしれない。あの日、何が起きたか伝えていく責任がある」と話した。

  ◆県動員学徒等犠牲者の会原爆死没者追悼(平和記念公園)
 新型コロナウイルスの影響で式典を取りやめ、遺族たちが原爆ドームの南隣にある慰霊塔を訪れた。西区の中尾俊男さん(81)は、兄2人を奪われた。当時17歳の兄は雑魚場町(現中区)で、13歳の兄は爆心地近くで建物疎開の作業中だった。「戦争に青春を奪われ、勉強も満足にできないまま亡くなった。骨も見つからない」と無念さをにじませた。

  ◆広島女子高等師範学校、付属山中高等女学校、県立第二高等女学校合同慰霊祭(中区国泰寺町)
 荒神堂境内にある慰霊碑前に遺族たち約50人が集まり、献花台に菊を手向けて黙とうした。南区の加藤美智子さん(83)は「年を重ねるごとに姉への思いが深くなる」と目を潤ませた。山中高女2年だった姉は、雑魚場町(現中区)で建物疎開作業中に亡くなった。「勉強が大好きで、家でいつも机に向かっていた。学びの道が閉ざされ、無念だったと思う」としのんだ。

  ◆県職員原爆犠牲者追悼(中区加古町)
 県庁跡近くの慰霊碑前で、県職員や遺族160人が犠牲者1142人を悼んだ。南区の永谷仁志さん(64)は、県職員だった祖父是(ただし)さんをしのんだ。出勤中に被爆したとみられ、遺骨も見つかっていない。毎年参列していた父昌照さんも昨年、亡くなった。「慰霊碑の前に立つと犠牲者の無念が伝わってくる。子どもや孫たちも追悼に訪れるようになってくれたら」と願いを込めた。

  ◆日本損害保険協会中国支部「友愛の碑」慰霊祭(中区中島町)
 平和大通り南側の緑地帯にある碑の前に、加盟する損保会社の関係者約50人が集まった。原爆の犠牲になった89人を悼み、各社の代表者たちが献花。同支部の吉田正紀委員長(54)は、東京から4月に着任してすぐに碑を訪れた。「先輩たちも安全安心な社会を目指していたはず。その遺志を受け継ぎ、若い人に託していきたい」。原爆が投下された午前8時15分には、全員で黙とうをささげた。

  ◆広島大付属中・高校原爆死没者・戦没者慰霊追悼の集い(南区翠)
 生徒と教職員計40人が、前身となる広島高等師範学校付属中の犠牲者の慰霊碑前で黙とう。鈴木由美子校長が「卒業生から平和を願う思いを受け継ぎ、戦争のない世界をつくる一員になろう」と呼び掛け、全員で碑に花と水をささげた。高校2年礒辺和佳菜さん(16)は「原爆の悲劇は二度と繰り返してはいけない。核兵器廃絶の署名運動など自分たちにできることをしたい」と誓った。

  ◆広島赤十字・原爆病院原爆殉職職員ならびに戦没職員慰霊式(中区千田町)
 病院の幹部職員11人が慰霊碑前で祈りをささげた。古川善也院長は「先輩方は病院に殺到する負傷者に懸命な治療を続けた」と述べ、原爆で亡くなった職員51人と、重軽傷を負った250人をしのんだ。今、被爆者の高齢化が進んで通院も難しくなる中、「訪問看護の充実など患者に寄り添った医療に尽くしていく」と力を込めた。

(2021年8月7日朝刊掲載)

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