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[ヒロシマの空白 被爆76年 証しを残す] ランドセル 思い次代へ 被爆死の市女生 前岡さん親族

うれしくてたまらなく入学しましたね

 広島市立第一高等女学校(市女、現舟入高)1年生で被爆死した前岡茂子さん=当時(12)=が幼い頃に使っていたランドセルが残されていた。母清子さん=同(41)=が、骨も見つからなかった娘の遺品として大切に保管していた。「思いを受け継いであげたい」。清子さんの孫の妻、由紀代さん(67)=中区=は6日、市女の慰霊碑前に花を手向け、原爆が引き裂いた母子の記憶の継承を誓った。

 小さな黒いランドセルの革はあちこち傷み、地の茶色がのぞく。茂子さんの小学校入学時に買った品とみられる。清子さんが被爆20年後、亡き娘に宛てた手紙も添えられていた。「セーラー服、ランドセル、うれしくてうれしくてたまらなく入学しましたね」「母は時折あなたのい品を出して思いきり泣く」

 1945年8月6日、市女1、2年生は現在の平和記念公園(中区)南側一帯の建物疎開作業に動員された。米軍が投じた原爆で、作業に出ていた541人は全滅した。清子さんも猿猴橋町(現南区)の自宅で被爆。助けられたが重傷で動けず、夫の喜三さんが娘を捜したが、遺骨も見つけられなかった。

 「親と子の死の対面さえも許してはくれませんでした」「生ある限り、あの子に詫(わ)びて、詫びて、詫び続ける」。清子さんは遺族会の手記集「流燈(りゅうとう)」(57年)にそう寄せた。3ページにわたる手記には、娘を救えなかった後悔と悲憤があふれる。

 由紀代さんは82年、清子さんの孫眞仁さんと結婚。娘3人に恵まれた。義理の祖母の清子さんはずっと罪の意識を抱えているように見えた、と振り返る。娘に十分食べさせてやれなかったと、いつも眞仁さんやひ孫たちのおなかを満たそうとした。

 清子さんが90年に亡くなった後、眞仁さんが慰霊祭に参列し続けたが、昨年12月に72歳で急逝した。由紀代さんは「残された者の役割」と、今年から自分が参列すると決めた。

 遺品は経年による傷みが目立つため、原爆資料館(中区)への寄贈を考えている。「残していけば子孫にも茂子さんのことを伝えられる。祖母にとってもうれしいことでしょう」。由紀代さんは言葉を詰まらせ、慰霊碑後ろの銘板に刻まれた茂子さんの名をそっとなでた。(明知隼二)

(2021年8月7日朝刊掲載)

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