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[ヒロシマの空白 被爆76年 証しを残す] 父はここにおった サカスタ予定地 輜重隊跡 姉・弟「最後」の慰霊

 76年前、米軍が広島に落とした1発の原爆は、今の中央公園広場(広島市中区)などにあった旧陸軍の輸送部隊「中国軍管区輜重(しちょう)兵補充隊(輜重隊)」の施設も焼き尽くした。小山正さん(76)=安佐北区=は隊員だった父了(さとる)さん=当時(37)=を失った。生後3カ月の時。「ヨイコヲシテヰマスカ」。遺品のはがきでしか、父の愛情に触れることはかなわなかった。6日、ことし発掘された部隊跡で、記憶にない父を悼んだ。(水川恭輔)

 「やんちゃだった子どもの頃、おふくろから『お父さんはええ人だったのに』と何度言われたことか。でも後に知れば知るほど、いいおやじなんです」。正さんは兵舎跡を見ながら、しみじみ語った。

 了さんは岡山師範学校(現岡山大)の教授。哲学や仏教を教えていた。1945年5月に正さんが生まれて間もなく召集令状が届き、岡山市に妻と子ども4人を残して入隊した。

 「ダンダンアツクナリマス。ミチコモタダシモ、ヨイコヲシテヰマスカ」(45年7月4日付)。了さんは数日置きに妻子にはがきを送り、食料や母乳の出具合を気遣った。「子供たちも静かなる田舎にて生長するハ、何かとよろしかるべく、私も大いによろこびます」(同8月1日付)。妻子が岡山県北に疎開したことを安心する一枚を最後に、はがきは途絶えた。

 あの日、爆心地から1キロ以内にあった部隊施設は壊滅した。「助かった同郷の兵士から、父は当時、上半身裸で体操していたと伝えられました」と正さん。遺骨は見つかっていない。

 残された母子5人が生計を頼った母の実父は、正さんが5歳の時に亡くなった。母も14歳の時に病死した。4人きょうだいは、長兄が教員を務めていた広島で支え合い、生きてきた。

 遺構を前に正さんは、かつて父の教え子から聞いた話を思い起こした。小山先生は入隊前の送別会で「行きたくない」と話されていました―。「なぜ、無慈悲に戦争を続けたのか」。怒りが込み上げた。

 広場にサッカースタジアムを建てる市は今月中旬以降に遺構を撤去する方針だ。正さんは「最後だから」と4歳上の姉道子さん(80)=安佐北区=を現地に誘った。「私も月夜に抱っこをしてもらったことぐらいしか記憶がないの。生まれたばかりのこの子は…」。道子さんは傍らの正さんを見やった。

 「『80歳近くまで元気に生きました。間もなくお会いしましょう』。おやじにそう伝えたい」。正さんは努めて明るく振る舞い、言葉をつないだ。「原爆は多くの人の人生を一瞬で奪った。この場所で、その悲惨さを考える若者が少しでも増えてほしい」

(2021年8月7日朝刊掲載)

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