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証言 記憶を受け継ぐ

『記憶を受け継ぐ』 沖西素子さん―焼け跡の灰 遺骨代わり

沖西素子(おきにし・もとこ)さん(86)=広島市安佐北区

長崎原爆の日

長崎から広島へ 長女の病に自責・不安

 沖西(おきにし)(旧姓(きゅうせい)・犬塚(いぬづか))素子さん(86)は10歳(さい)の時に長崎(ながさき)で被爆(ひばく)し、現在(げんざい)は広島市内で暮(く)らしています。毎年8月6日と9日を特別な思いで迎えながら、二つの被爆地を見つめてきました。

 生まれたのは中国・大連です。父は長崎の沖合(おきあい)にある五島列島から旧満州(中国東北部)に渡(わた)り、書店を営(いとな)んでいました。1歳で母が亡(な)くなり、伯母(おば)の犬塚ミツさん=当時(53)=が沖西さんの母代わりに。1944年に一緒(いっしょ)に長崎へ移(うつ)り、いとこの高村忠三(ちゅうぞう)さんたち6人で暮らしました。

 忠三さんは45年当時、長崎工業経営専門(けいえいせんもん)学校(現(げん)長崎大)1年生の17歳で、8月1日から三菱(みつびし)重工業長崎兵器製作所茂里町(せいさくじょもりまち)工場で魚雷(ぎょらい)を造(つく)る作業に動員されていました。沖西さんは「大好きな忠兄(ちゅうにい)さん」を毎朝見送っていました。

 8日、忠三さんの父松三郎(まつさぶろう)さん=当時(51)=たちが五島から魚や米を届(とど)けに来ました。その夜、沖西さんは空襲(くうしゅう)に備(そな)えて近所の男の子と防空壕(ぼうくうごう)で眠(ねむ)りました。「広島に新型爆弾(ばくだん)が落とされた」という情報(じょうほう)が既(すで)に長崎に届いていました。

 9日午前11時ごろ、昼食の準備(じゅんび)のため家の外でしちりんに火をおこしていたときです。裏山(うらやま)の方向から飛行機の音が聞こえました。急いで家に逃(に)げ込(こ)んだのと同時に、青白く光り、ドーンと爆音が鳴りました。爆心地から約4キロ。自宅(じたく)の窓(まど)と庭の温室のガラスが粉々です。高台の下の方にある家はつぶれ、あちこちで火の手が上がっていました。

 松三郎さんたちが翌(よく)日から忠三さんを捜(さが)し歩きましたが、爆心地から約1・4キロの工場はがれきと骨(ほね)組みだけになっていました。3日後、灰(はい)をつぼに入れて持ち帰ってきました。その晩(ばん)、皆(みな)でつぼを囲んで泣きました。「こっそり菓子(かし)を分けてくれる、優(やさ)しいお兄ちゃん。今も涙(なみだ)が出ます」

 沖西さんも、市中心部のの銭座(ぜんざ)町に住んでいた姉禮子(れいこ)さん=当時(17)=を捜しました。磨屋(とぎや)国民学校(現諏訪(すわ)小)で雨宿りしていると、目の前で火葬(かそう)されていた遺体(いたい)の足が焼け落ち、家族らしき女性(じょせい)が「足を拾わんばー(拾って)」と叫(さけ)んでいました。禮子さんとは後に生きて再会(さいかい)できました。その時の喜びは忘(わす)れられません。

 終戦後の49年になると「米軍の官舎(かんしゃ)にする」という理由で、自宅(じたく)が長崎県による買い上げの対象になりました。広島の叔父(おじ)を頼(たよ)り、原爆ドームのすぐ近くに引っ越(こ)しました。60年に照男さんと結婚(けっこん)し、子ども2人に恵まれます。

 家族に被爆体験を伝えることはありませんでした。しかし2008年、過酷(かこく)な現実に直面します。ビオラ奏者として活動する長女慶子(けいこ)さん(56)に甲状腺(こうじょうせん)がんが見つかったのです。「自分が被爆者だからか。被爆後に『原爆症(しょう)の予防(よぼう)になる』と聞いて汚染(おせん)された庭の柿(かき)の葉を煎(せん)じて飲んだからか…」。被爆2世の親戚(しんせき)2人も、白血病とがんで亡くなっています。自責(じせき)の念と不安にさいなまれました。

 そんな沖西さんを励(はげ)ましてくれたのは、3回の手術(しゅじゅつ)を受けながら、自ら原爆について学び始めた慶子さんでした。慶子さんの強い勧(すす)めで13年、国立長崎原爆死没者追悼(しぼつしゃついとう)平和祈念館(きねんかん)に、被爆証言(しょうげん)の聞き取りをしてもらいました。初めて体験を詳(くわ)しく語りました。

 慶子さんは今、広島市が養成する被爆体験伝承(でんしょう)者と、長崎市の家族証言(しょうげん)者の両方で活動しています。「原爆と核(かく)兵器は、一人一人にとって大切な人を奪(うば)い去る兵器。若(わか)い人に知ってほしい」。沖西さんは、その思いを娘(むすめ)に託(たく)します。今も「大好きな忠兄さん」を思い、好物だった焼きなすを仏壇(ぶつだん)に供(そな)えています。(湯浅梨奈)

10代の感想

被爆の恐ろしさ伝える

 長女の慶子さんが甲状腺がんになった時、被爆後何十年もたってから原爆の影響(えいきょう)かもしれないと感じた沖西さんのショックは大きかったと思います。被爆2世のおいたちも亡くなっていたため、恐怖(きょうふ)を感じたことも伝わってきました。被爆2世への放射線(ほうしゃせん)の影響は分からないこともありますが、そのことも含(ふく)めて世界に発信していきたいです。(中1山代夏葵)

平和への考え 持ちたい

 いつも通りに朝見送ったいとこの遺骨(いこつ)の破片(はへん)さえ見つからなかったそうです。戦争をしてはいけない、とあらためて感じましたが、沖西さんに「平和」についての自分の考えを聞かれると、うまく言えませんでした。被爆者の体験を聞いて終わりではなく、僕(ぼく)たちが次世代に原爆を伝えるため「平和」について明確(めいかく)な考えを持ちたいです。(中3小川友寛)

 沖西さんは9日朝、いつも通り忠三さんを見送ったのを最後に会えなくなりました。「忠兄さんが笑顔で手を振り返してくれた」と聞き、胸が締め付けられました。戦争が起きると、大切な人と会えなくなってしまう、といいます。当たり前が当たり前でなくなる事を知りました。このようなことが、過去に限らず将来も起きるかもしれないと意識し、これからも被爆体験を聞くようにしたいです。(高一中島優野)

 最も印象的だったのは、沖西さんが戦後4年で広島の本通りの一角に引っ越し「空き地の土を掘ると骨が出てきた」ということです。現在の華やかな街並みからは想像できず、一瞬耳を疑うほど驚きました。76年前のあの日、原爆投下によって人々の日常が一瞬で壊された事実を実感しました。今日私たちが生活している広島の今があることに、感謝の気持ちを抱き続けたいと思います。(高2四反田悠花)

 沖西さんは至る所で遺体が焼かれている景色が印象に残ったそうです。当時はまだ10歳でした。幼い子どもにとって残酷な風景を見せる戦争や原爆は、恐ろしいと思いました。そして、戦争が終わっても心に大きな傷が残ることがわかりました。日常で家族そろって普通にご飯を食べられるのは、平和だからこそできるのだと感じました。(中2谷村咲蕾)

 沖西さんはあの日の朝、いつも通りいとこを見送り、「行ってきます」と交わしたのが最後だったと話していました。戦争で大切な人が徴兵されたり、原爆のように無差別に人が殺されたりする悲惨な事が二度と起きませんように。ヒロシマで暮らす私たちがどれだけ原爆がひどい物なのかを伝えていきたいです。戦争がない時代でも、いつ大切な人が亡くなるか分かりません。後悔しないようできる事はしていこうと思います。(高2桂一葉)

 沖西さんの話は想像を絶するものでした。原爆で親族をなくし、自身も被爆し、多くの辛い経験をしてきた気持ちは計り知れません。まるで家族の一員だった親戚の人が、遺骨も見つからず、お別れもできないまま灰となって帰ってくる。私なら、このような状況を想像するだけでとても辛くなります。広島と長崎で違う部分はあっても、平和を思う気持ちは同じだと感じました。(中2相馬吏子)

(2021年8月9日朝刊掲載)

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