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植物生態学者 宮脇昭さんを悼む 被爆地の芽吹き 原点に

 名誉教授の肩書の人にコートを着せてもらった記憶が一度ある。9年前の冬、宮脇昭さんを横浜の国際生態学センターに訪ね、「森の防潮堤」の取材を終えて辞去しようとした時のこと。84歳にしてはあまりにも所作が自然で、驚くやら、恐縮するやら。

 高梁市の山村の四男坊。ヤブ蚊やブヨが飛ぶ中、大人がぼろ布をねじっては火でいぶし、田畑をはいずり回って草取りする姿を見て育つ。もっと楽に農作業ができたら、と雑草研究の道に入った。

 農林学校などを経て広島文理科大(現広島大)に入ったのは1949年。校舎は原爆で焼失し、れんが造りが残るだけだった。鷹野橋の闇市で買い出しし、研究室で飯ごう飯を炊いて腹を満たす。

 がれきの残る広島の市街地を踏査した。爆心から1・5キロの神社でタブノキの新芽を見つけ、根も生きているのを不思議に思った。「あの感動は今も忘れられない」と自伝にある。「潜在自然植生」の理論をその後究め、日本列島本来の常緑広葉樹林の中で主たる木はタブノキだと突き止めた。被爆地の小さな芽吹きには深い意味があった。

 横浜国立大の助手になると全国の雑草群落を調べた。米と飯ごうを持参し、宿代節約のため夜汽車を乗り継ぐ貧乏旅。旅先で天ぷらだけ買って飯ごう飯に載せる。天丼にしようと、つゆだけ駅そばの店主にもらい「いくらですか」と聞くと「おつゆだけじゃ」と、ただにしてくれた。

 飯ごう飯は行く先々の農家で炊いてもらった。駅を通過する貨物列車に便乗したことも。見ず知らずの私たちに、どこでも親切にしてくださった―と自伝で感謝の念を伝えている。植物のありようだけでなく人としてのありようを学んだ青年時代だった。

 やがてドイツ留学の好機が訪れる。「人間の活動はこれから激しくなる。緑の最前線になるのは(人間に呼応して繁茂する)雑草だ。一緒に研究しないか」と誘われた。帰国後は再び、地道な調査を経て「日本植生誌」の刊行に着手し、9年かけて全10巻を完結させることができた。

 植物の社会と人間社会はアナロジー(類似)ではなくホモロジー(同一)である―。「生命のおきて」は人も植物も同じだと、宮脇さんは説いた。競争力が弱くても我慢ができる植物は他の植物がいない環境で生き抜く。生命の世界で独り勝ちは危うい、人も生命のおきてを理解して少し我慢しながら生き続けるのが本当だという。でなければ必ずしっぺ返しが来ると。

 晩年は東日本大震災の震災がれきによる「森の防潮堤」を提唱した。第2次大戦後、欧州の諸都市では戦災がれきを礎に森を築いた。がれきは貴重な資源であり、巨費を投じて処分するのは愚かだという。有機性のがれきを大まかに砕いて土や砂と混ぜた丘を造成すると、がれきと土壌の間に空気の隙間が生まれる。常緑広葉樹を自然の森のように密に植えれば根は地中深く入り、がれきと絡み合って安定する―と説いていた。

 「古来、人類が海沿いに住むのは生物資源の宝庫だからであり、一時的に高台に移転しても数十年たてば回帰するでしょう。忘れたころに襲う災害に対し、命を守る森づくりをしておかなければなりません」。宮脇さんは筆者にこうも語っていた。「復興五輪」の惹句(じゃっく)をいつのまにか消し去った、この国の為政者に聞かせたい遺言である。(特別論説委員・佐田尾信作)

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 宮脇昭さんは7月16日死去、93歳。

(2021年8月14日朝刊掲載)

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