二重被爆者つなぐ祈り 広島で家族3人失い納骨のため郷里長崎へ
13年8月6日
安佐南区の賀谷さん 「平和であって」
広島市安佐南区に住む賀谷美佐子さん(83)は、きょう8月6日は広島と長崎を祈る。1945年当日の広島原爆で被爆した体を押して、爆死した母と妹、曽祖母の3人の遺骨を納めるため郷里長崎へ向かい、15日入市被爆した。求めに応じて「あの朝」までいた自宅跡で、二重被爆の体験を語った。(編集委員・西本雅実)
旧姓渡辺美佐子さんは、家族6人で広瀬神社(中区)西そばに住んでいた。三菱重工業長崎造船所勤務の父が44年、開所間もない広島造船所(同)へ転勤となり、長女の美佐子さんは山中高女へ転校。重工広島機械製作所(西区)への学徒動員が続いた。
「あの朝は私が休みたいと言うので、母は『配給の大豆で蒸しパンをつくるから行っておいで』と促しました。妹は『さようなら』と…なぜ、あんな言葉が出たのかと今も思います」。自然と涙まじりとなった。
美佐子さんは製作所診療所で被爆。8日再会できた父富士一さん=当時(43)=と三つ下の妹と爆心地から約1キロとなった自宅跡に向かい、がれきを掘った。
母八重さん=同(37)=と妹多美恵さん=同(3)=は「骨というより灰のようになり」、曽祖母サワさん=同(84)=は「上半身が白骨」。父が木箱に納めて職場に安置した。翌9日、郷里長崎も原爆の惨禍に見舞われた。
「課長の父は広島を離れられず、『早く納骨してやりたい』と言われ、長崎へ妹と向かいました。終戦の8月15日でした」という。
罹災(りさい)証明書で屋根のない石炭列車に乗った。列車は長崎爆心地近くの浦上駅の手前、道ノ尾駅で止まり、歩くしかなかった。
「浦上は白骨が至る所にありました。怖いという感情も湧かなかった」。長崎造船所を望む岩瀬道町の墓地へ納めた16日、今度は復員列車で戻った。
被爆翌年から「8月6日」は長崎で祈り、結婚して2男1女の子育てを終えても続けた。二重被爆の話は家族の間にとどめてきた。
広瀬神社を立ち去る時、問わず語りにつぶやいた。「戦争はこりごり、平和であってほしい。原爆の日に祈るのはそれだけです」。広島で健在の妹と今夏は8月15日長崎へ参る。
二重被爆者
広島と直線で約300キロ離れた長崎で直接・入市被爆した人たち。国立広島原爆死没者追悼平和祈念館が2005年、厚生労働省の被爆者実態調査に伴う自由記述やそれまでの手記集を調べ、164人(うち女性30人、性別不明2人)が「両市被爆」と読めることを確認した。三菱重工業両造船所の社員家族が多かった。
(2013年8月6日朝刊掲載)