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宇部の戦前建築 漂う革新の気風 堀雅昭さん新著「村野藤吾と俵田明」 

「戦間期」外遊 2人に共通

 宇部市のノンフィクション作家堀雅昭さんが新著「村野藤吾と俵田明」を出した。戦後は広島市の世界平和記念聖堂(国重要文化財)の設計で知られる建築家村野だが、戦前の作品は少なからず宇部市にあり、この地の実業家俵田明の庇護(ひご)に負うところが大きい。2人に共通していた「革新」の気風を、革命とファシズムの世界史から堀さんは読み解いている。(特別論説委員・佐田尾信作)

 村野は1891(明治24)年佐賀県唐津市に生まれ、早稲田大で建築を学んで1929(昭和4)年に独立。「様式の上にあれ」と唱え、戦後主流となるモダニズムと一線を画した作品を手掛けて93歳で没した。日本建築学会建築大賞などを受けている。

 宇部との関わりは沖ノ山炭鉱(宇部興産の前身)の社長俵田明との出会いに始まる。創業者渡辺祐策を顕彰する渡辺翁記念会館(国重文)を手はじめに、宇部銀行などの建物を手がけ、最晩年にも旧宇部興産ビルを設計した。

 堀さんは村野と俵田に共通するバックボーンとして、第1次大戦後の欧米への外遊を挙げている。アダム・スミスが説いた自由主義経済が行き詰まる一方、ロシア革命が勃発し、イタリアでファシスト党、ドイツではナチスが台頭した「戦間期」である。

 戦間期は再び世界大戦を準備した。しかし堀さんは「資本主義の矛盾が深まる中、格差をなくし、労働者に生きがいを与えようという新たな潮流を村野も見た」と言う。確かに「国民車(フォルクスワーゲン)」はヒトラーの手で生み出された。国家が経済を強力に統制していく。これが当時の「革新」だった。

 村野は2回目の外遊を終えた後、京都市のドイツ文化研究所を設計し、34(昭和9)年に完成させる。その翌年、渡辺翁記念会館の設計者に決まった。設計思想の上で二つの作品は関わりが深い。

 ベルリン五輪に代表されるように、スポーツや芸術を国民運動としてあおるのはファシズムの特徴だった。渡辺翁記念会館は労働者に音楽を広めるためのオーディトリウム(音楽堂)が基本だが、村野が外遊で感化を受けた証しと考えられる。装飾にナチズムの影響が濃い半面、ロシア構成主義(ロシア革命後の芸術表現)やカトリック建築の影響も受けていたようだ。

 村野は宇部油化工業などの工場も手がけた。建築史家長谷川尭との最晩年の対談では「(工場は)人間がいる以上は<美術建築>でなきゃいかん」と語っている。「人間不在」を嫌い「社会改良家」を自認していたという。社会改良主義もまた一つの潮流として近代に登場した。ある時期の世界史が村野建築には凝縮され、その聖地が宇部―。これが堀さんの見立てだ。

 村野は「宇部(に)はモンロー主義があるんですよ」とも明言していた。第5代米国大統領モンローの相互不干渉外交になぞらえた、近代宇部の精神風土を指す。幕末維新の士族の残党が炭鉱を中心に自立都市を築き、良くも悪くも外部の干渉をはねつけた。堀さんは「閉じられた力の具現者だった俵田に庇護され、村野は多くの初期作品を宇部に残せた」としている。

 ナチズムによるホロコースト(ユダヤ人大虐殺)は人類史上まれにみる犯罪だ。だがナチズムがいかにして民衆の支持を広げたのか、そこから目をそらせてはなるまい。一地域の建築から世界史を俯瞰(ふかん)できる好著である。

(2021年8月18日朝刊掲載)

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