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連載・特集

緑地帯 廣谷明人 奇跡の被爆バイオリン⑥

 原爆投下から約1カ月後、知人を捜しに広島市内に入ったセルゲイは、5年前に渡米していた長男ニコライと奇跡的に再会する。

 米国で働きながら高校に通っていたニコライは、真珠湾攻撃の報に衝撃を受け、日本の知人からの手紙で父親のスパイ容疑のことを知ると、日本への不信を募らせた。1943年、彼は高校卒業を目前にして陸軍に志願する。内地訓練後、フィリピンで日本本土のラジオと日本軍の通信を傍受し、英訳する任務に就いた。日本兵捕虜への尋問も行った。彼は日本人の心情を熟知し、決して高圧的にならなかったので、捕虜から多くの情報を聞くことができた。45年8月、彼は日本の電波から、広島がたった一発の爆弾で破壊されたことを知り、上官に報告した。しかし、原爆投下は極秘情報だったため「誤訳」だと一笑に付された。

 終戦後、ニコライはマッカーサー一行とともに来日し、通訳を務めた。9月、特別休暇の許可を得て、彼は広島駅に降り立ち、変わり果てた生まれ故郷に言葉を失った。市中心部にあった生家を捜したが、見つけたのは見慣れたベッドの焼け焦げた鉄枠だけだった。原爆前、一家が牛田(現東区)へ転居したことを知らなかった彼は、家族全員が亡くなったと思い絶望する。

 諦めてジープに乗り、広島市内を出ようとしていた彼の目に、父の姿が飛び込んだ。「まるで幻を見ているようだった」とニコライは後年記している。その後、一家は東京に移り、セルゲイと長女のカレリアはニコライの取り計らいでGHQで働くことになった。(元英語教諭=広島市)

(2021年8月21日朝刊掲載)

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