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社説・コラム

天風録 『生ましめんかな』

 「こわれたビルディングの地下室の夜だった」と始まる。栗原貞子の詩「生ましめんかな」である。原爆で壊滅した街の負傷者が身を寄せる暗がりで、若い女性は産気づく。重傷の助産師が手を貸して「地獄の底で新しい生命は生まれた」▲76年前の広島であった出来事をモチーフに書かれた作品である。「マッチ一本ない」過酷な状況での出産。生まれてきた子を抱きしめ、母親は安堵(あんど)しただろう。響く産声は傷ついた人々に一筋の光を見せたに違いない▲医療が逼迫(ひっぱく)した状況下、新型コロナに感染した千葉県の妊婦には救いの手が届かなかった。入院受け入れ先が見つからず、療養中の自宅で早産。赤ちゃんは死亡した。県などが受け入れ先を調整したものの間に合わなかった▲最優先でケアすべき人なのに、なぜ救えなかったか。先日、首相は言った。医療体制の構築を、3本柱の一つにすると。今からなのか。これまでの1年半、政府は何をしてきたのだろう▲詩の中の助産師は命の誕生を見届けて息絶える。詩は「生ましめんかな/己が命捨つとも」と終わる。今、コロナ対策とともに語られるのは、国民の命を守るのが責務だ―という言葉。だが、むなしく響く。

(2021年8月21日朝刊掲載)

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