×

ニュース

家計簿が映す戦後の復興 広島の米田さん、75年続け70冊

「汽車賃2円40銭」「飢餓突破金」配給にどよめき

「グルメ」にびっくり 広響公演・海外旅行も身近に

 広島市東区の主婦米田照さん(94)が、戦後から75年間、家計簿を書き続けている。食糧不足だった戦後の暮らしや、子どもが生まれたときのこと…。自宅に残る75年分70冊のページをめくると、思い出がよみがえる。「家計簿は家族の歴史。かけがえのない生活の証しです」。家庭の様子とともに、次第に豊かになっていく戦後日本の暮らし、経済の移り変わりも映し出す。(文・馬上稔子、写真・山田太一)

  ≪終戦翌年の1946年に結婚。8月に夫と海田市町(現広島県海田町)で同居を始めたのをきっかけに、家計簿を付け始めた≫

 夫の転勤で9回も引っ越したけど、ずっと捨てられなかった。今でも一冊も欠けていないなんて自分でもびっくり。でも面白いから続けられた。持っている現金と、帳簿上の数がきっちり合うのがとっても痛快なのよね。数が合わなければ1日を思い返して。ぼけ防止にもなっていたんじゃないかね。

 女学校時代には寮生活をしていて、小遣い帳を付けるよう指導されていたから習慣になっていた。結婚して書き始めた1冊目は鉛筆書きの大学ノート。「汽車賃2円40銭」「お風呂(二人)80銭」「魚9円90銭」…。細かく書いてあるでしょう。

 当時は終戦直後で、まだ配給が続いていた。配給があるときには町内の人が鐘を鳴らして回って知らせてくれたんだけど、そうすると各家から「うおーっ」という歓声が上がり、街がどよめいた。まだまだ食べ物が足りなかった時代。バケツを持って配給所に並んで、芋やカボチャを買いました。

 ≪その後、米田さんは夫の勤務先の社宅があった広島市の基町(現中区)に転居した≫

 街の建物はバラックだった。屋根が薄いから、日中の熱がこもって暑くて寝られんかった。まだ夜は暗くて、犯罪もありました。でも街に1本ずつ街灯が立っていって、その様子に復興のつち音を実感したものです。

 読み返してみると、夫の勤め先から「飢餓突破金」「越冬資金」なんてもらっとるんよね。時代を感じるね。当時は戦争孤児がたくさんいて、兵隊さんが復員して帰ってきたら、家族も自分の家もないという人もいた。まだまだ街は飢えていたんよ。それでも、もう爆弾が落ちてこないし、ささやかでも配給がある。おびえた生活から解放され「戦争が終わったんだ」と明るい雰囲気があったねえ。

 長男が生まれた48年ごろには配給の衣料切符を使って、赤ちゃんの肌着を作った覚えがあるねえ。お祝いに近所の人から卵を三つもらって。(米国の民間支援団体による)「ララ物資」で手に入れたスカートの生地を使って、子どもの衣服を作っていたこともよく覚えています。

 ≪日本の経済成長とともに、社会は豊かになっていく≫

 世の中で「グルメ」っていう言葉が使われるようになった時は、びっくりした。少し前までは食べていくのも大変な時代だったのにね。

 私たちはぜいたくはあまりしなかったけど、長男が大学に入ったときにはみんなで兵庫県姫路市へ旅行に行きました。末の娘が嫁いだ後には広響(広島交響楽団)の公演に定期的に行くようになったし、海外旅行にも行けた。約40年前からは、アジアの人々を支援する団体に寄付も続けています。食べ物や暮らしに必要な物以外にもお金を使える時代になっていったということよね。

 ≪3人の子どもは巣立ち、夫は8年前に他界。今は1人暮らしで、家計もスリムになった≫

 5月に入院もして、なかなか以前のように出歩くことが難しくなった。それでも、お金を使った日には必ず家計簿を付けます。通院の時のタクシー代のように、年寄りならではの必要な支出にも気付けた。

 貧しいときから始めて、豊かな老後まで。食べる物を買うことができて、平和に暮らしていられるから、家計簿を書くことができる。健康にも恵まれ、家計簿を付け続けられていることに感謝ですよ。生きている限り続けたいですね。

(2021年8月22日朝刊掲載)

年別アーカイブ