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現場報告2013 被爆兵収容の悲劇忘れぬ 松江の陸軍病院分院の記憶聞く

 島根県内有数の観光地である松江市玉湯町の玉造温泉。近年は若い女性たちでにぎわう温泉街の一角に、かつて広島第一陸軍病院の玉造分院があった。1945年8月6日の広島への原爆投下後、約200人の被爆兵が運び込まれ、亡くなった人もいた。軍の秘密として地元住民にも伏せられた悲劇。その記憶を同町の住民2人から聞いた。(明知隼二)

看護に当たった錦織さん

軍の秘密 まるで地獄

 当時18歳だった錦織素子さん(86)は、女子青年団員として被爆兵を看護した。けが人が来るとの連絡を受け、分院となっていた旅館で待機する間は衛生兵も落ち着いた様子だった。だが、全身が焼けただれ、顔が溶けた兵士たちが運び込まれると状況は一変。「びっくりして、地獄みたいで。そこから先はあまり覚えていない」と話す。

 広間に横たわる兵士たちの体は濃い茶色でうじが湧いていた。「姉さん、姉さん」と水を求められたが、ただうちわであおぐしかなかった。近くの山からは兵士を火葬する煙が連日上っていた。

 軍関係者から「見たことは話すな」と言われたが、帰宅後にたまらず親に漏らした。父は「若い娘には無理な仕事だ」と憤ったが、分院での手伝いは10日ほど続いた。

 少女たちに食事として用意された牛肉の煮物の匂いを鮮明に覚えている。「当時はごちそう。でも人の臭いと重なって吐き気がした」。食事は断った。牛肉の煮物は今も苦手だ。

 戦後、体験を語ることはなかった。それでも被爆者健康手帳を取得した95年ごろから家族に話し始め、体験記もまとめた。「国のための『聖戦』と疑わなかった。でも違った。戦争は絶対に駄目」。言葉に力を込めた。

地蔵建立に尽力 新宮さん

死者名不明 供養続ける

 温泉街の外れに、亡くなった被爆兵を供養する地蔵(2・4メートル)がある。当時陸軍技術少尉で、45年3月まで広島にいた新宮承紀(つぐのり)さん(91)が建立を呼び掛け、地元有志の協力で2011年に完成した。

 旧満州(中国東北部)で入隊。戦況は悪化し「みんな少しでも長く生きる道を必死に考えた」。国内で訓練する幹部学校に入学し、卒業後は技術将校として44年9月に広島へ。終戦は福岡県で迎えた。「命拾いしたようなもの」と、自身の歩みをかみしめる。

 45年10月ごろ地元に戻り、3年後に分院の存在を知った。関係者に話を聞き少しずつ被爆兵のことを知った。「このままでは忘れ去られる」。被爆を免れたとの思いもあり、被爆60年の05年に建立に動きだした。

 亡くなった兵士の名前など詳しいことは今も不明だ。石碑には「極暑のなか手の施しようもないまま水、水と訴え次々と亡くなられた」と刻んだ。「ここであった悲劇を記憶してほしい」。傍らの鉢からひしゃくで水をくみ、そっと地蔵の足元に注いだ。

広島第一陸軍病院玉造分院
 1945年4月、玉造温泉の旅館5軒を徴用し開設した。広島市の広島原爆戦災誌には同年8月15日以降、195人の被爆兵が運び込まれ、10月の閉鎖までに11人が亡くなったと記されている。

(2013年8月6日朝刊掲載)

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