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社説・コラム

親愛なるアフガニスタンの人々のための訴え

  混乱が続く中でも、平和、教育、そして機会さえあれば自国を立て直すことができる、新しい世代が育っていた。権力の均衡がどのように変わるとしても、これまでの歩みを無駄にしては、アフガニスタンの利益にならない

ナスリーン・アジミ
ホメイラ・カマル
シャラピヤ・カキモヴァ

 (シンガポールのストレーツタイムズ紙からの転載。原文は英語)

 長年苦難にあえいできたこの国に存続のチャンスを与えるよう、アフガニスタンのすべての勢力と世界の指導者たちに嘆願するべく、私たちはこの記事を書いています。

 公正な選挙を順当に実施できるよう国連が準備する間、アフガニスタンがさらなる内戦と無秩序に陥るのを避けるため、主要関係者が力を結集してこの国の権力移行を支援することは、すべての人の利益にかないます。

 アフガニスタンが再び代理戦争のための無防備な戦場となって、何百万人もの難民が近隣諸国に溢れ出し、地域一帯を不安定な状況にさらすことが、誰の利益にもならないのは明らかです。

 権力移行をめぐる交渉の結果がどのようになろうとも、権力を握る者は4000万人の代表を務めなければならないことを、タリバンは念頭に置く必要があるでしょう。恐怖と混乱のただなかに押しやられ、苦難にあえぐ、物言わぬ多数派のアフガニスタンの人々には、平和と安定を得る権利があるのです。

 よく聞かされるのは、このアフガニスタンという国に望みはない、部族主義的なアフガニスタン人は協力し合うことができない、ということです。これは正しくありません。私たちは過去20年間、様々な立場から、アフガニスタンの若き専門家たちのための研修プログラムにたずさわってきました。そのバックグラウンドは、あらゆる職業や社会的地位、血族や部族、さらに公務員や大学関係者から民間企業、NGOまで多岐に渡ります。彼らが協働できるということを、私たちは知っているのです。

 このプログラムのきっかけを作ったのは広島ですが、アメリカ、カナダ、中国、ロシア、日本、シンガポール、インド、パキスタン、イギリス、カザフスタン、バングラデシュ、スリランカといった国々の、何十名もの熱心な専門家やアドバイザー、そして私たちが、この20年間たずさわり続けてこられたのは、アフガニスタンの人々への親愛の情があるからです。

広島という名の希望

 この奨学プログラムの原点は、2001年までさかのぼります。当時私たちは、広島の戦後の経験から学ぶ研修プログラムの企画を任じられていました。私たちはアフガニスタンへと赴きました。30年にわたる紛争で国が荒廃した状況ではありましたが、崩壊した行政の立て直しを助けるのにどうするのが最善かを探るべく、大勢の人々に話を聞いたのです。

 その成果が、国連ユニタール広島アフガニスタン奨学プロジェクト――アフガニスタンの専門職従事者を対象とした1年間の幹部研修です。この研修では、プロジェクト立案、チームビルディングから会計・予算に至るまで、また初期の数年間では英語や基本的なコンピュータ技能も含めた、中核スキルが学ばれました。

 それぞれのチームが、アフガニスタン内外で、献身的なボランティアのメンターグループと共に研修に取り組みました。インクルーシブ(あらゆる者を受け入れる)であることは必須であり、男性も女性も、パシュトゥーン、ハザーラ、タジク、ウズベク、それ以外の人々も一緒になって取り組んだのです。どの年度の研修も、最終ワークショップは広島で行われました。

 広島の戦後復興の話から、研修生たちは大いに影響を受けました。広島平和記念資料館を訪れたり、被爆者の方の証言を聞いたりした後、彼らの多くはこのように語ってくれたものです。「広島が復興できたのなら、私たちにもきっとできる」。憎しみに身を置くことよりも、行動することを選ぼうとする広島の努力が、彼らの心に強く響いたのです。

 この奨学プログラムはつましいものではありましたが、定期的かつ長期的なものであり、多くのものを失ってしまった国においては、その地道な取り組みこそが強みとなりました。

 絶え間ない政治的混乱、爆破予告や暗殺への恐怖、乏しい資源やインフラといった、アフガニスタンの同志たちが日常的に直面する現実や課題を、私たちは思い起こし、それにかなうようにと努めました。

 奨学プログラムでは研修生が主体となり、アフガニスタンの人々は自身のニーズと最適な解決策に自ら気づける、ということが示されました。アフガニスタンの同志たちはトップダウンの援助に受け身になっていたわけではありません。実際には多くの人々が命のリスクを冒して、プログラムを援助してくれたのです。  

 成果に対する彼らの知的な、そして個人的な責任感がこのプログラムの力関係にも作用し、私たち全員が大きな学びのコミュニティの一部となりました。派手な方法ではありませんが、この奨学プログラムでは、国際援助では生み出すことが難しいと言われている、国家のオーナーシップ(主体性)を実感するに到りました。

発展と可能性が危機に瀕している

 アフガニスタンの諸問題すべてをこの奨学プログラムで解決できるとは言いませんが、才能ある人材はたくさんいるということを、私たちはじかに見て知っています。

 ささやかな政治の安定があれば、若い世代は変化を起こすことができます。奨学プログラムによって始まった事業が変貌し、それが礎となっていくさまも、私たちは見てきました。善意の植物園専門家による幅広いネットワークと研修修了生の支援のもと、現在私たちは、アフガニスタンの大学が植物園を設置するのを援助しています。アフガニスタンには植物園が1つも存在しないのです。

 過去20年間を経ても、アフガニスタンには進歩がないと指摘する人は数多くいます。フラストレーションを感じるのも理解できますが、2001年の時点でアフガニスタンがどこにいたかを忘れ、これまでの達成を貶めることは、自らの首を絞めるだけでなく、間違いでもあります。

 20年前、学校に通えていたのはたった90万人程度の男の子たちでしたが、今日では900万人を超える子どもたちが学校に通っているのです。そのうちの39%が女の子たちです。子どもたちは、政府でもタリバンでもありません。みなアフガニスタンの子どもたちなのです。平和、教育そして機会があれば、彼らは自国を立て直すことができます。

 人口の約42%が14歳未満であるアフガニスタンは、世界で最も若い国々の1つです。もう1世代で、発展の根が張ります。

 アフガニスタンの人々は、私たちの人生に深く影響を与えました。その高潔さ、立ち直る力、温かさ、学びへの情熱、日本の規律正しさと優れた技術力に向けられた素朴な感嘆に、研修のメンターや広島の主催者らは感化されました。

 くじけそうな状況にはジョークを思いつき、機会を見つけては歌ったり詩を朗唱したりする様子に、私たちは喜びを覚え、笑いもしました。彼らとの長年続く絆は、哀れみや単なる同情によるものではなく、共感と感嘆の念によるものです。彼らはより良い暮らしを送ることができる、送る権利がある、と確信しましたし、平和と繁栄のアフガニスタンという彼らの希望を、私たちも信じるようになりました。

 2019年にアフガニスタンで殺害された日本人医師・中村哲さんは、当初は最も貧困に苦しめられている地域でハンセン病患者を診療する医師として、その後農業改革を率いる活動家として、35年以上にわたり現地で活動していました。

 中村医師の構想により、24キロメートルのかんがい用水路が建設され、干ばつに見舞われたナンガルハール州の約1万6000ヘクタールの農地に水が届き、最終的に60万を超えるアフガニスタンの人々の食料を確保することができました。アフガニスタンの友人たちを、中村医師は決して見捨てはしませんでした。

 中村医師と同様に、私たちの多くが長年にわたって、新しいアフガニスタンの萌芽を目にしてきました。私たちは知っています――それはきっと実現すると。この国のすべての人々には、その豊かな文化遺産にふさわしい平和を希求する、「アフガニスタン」というアイデンティティの核があるのだと。お願いします、どうかアフガニスタンの平和を諦めないでください。

•ナスリーン・アジミは、グリーン・レガシー・ヒロシマのコーディネーターで、アフガニスタン・フェローシップ・レガシー・プロジェクトのチームリーダー。
•ホメイラ・カマルは、アフガニスタン奨学プログラムの元プログラムマネージャーで、現在はアフガニスタン・フェローシップ・レガシー・プロジェクトのコーディネーター。
•シャラピヤ・カキモヴァは、元国連ユニタール広島事務所スタッフ、元アフガニスタン奨学プログラム・コアチームメンバー。

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