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[鉄の街の記憶] 製鉄所誕生(1951年) 工廠の跡地 雇用救う

 呉湾に臨む工場群。煙突から煙がたなびき、舗装されていない道路の砂ぼこりが舞う。1951年開設の日亜製鋼呉工場(現日本製鉄瀬戸内製鉄所呉地区、呉市)。56年入社の元社員、山本親男さん(83)=呉市焼山桜ケ丘=は「煙が出ていると『日亜、よう頑張っとるのう』と声を掛けられた」と懐かしむ。

 関西を拠点とする日亜が呉海軍工廠(こうしょう)跡に進出した工場。スクラップから鉄を造った。混入していた機銃弾が爆発し、負傷者が出たことも。事務所はクレーンが横切るたびに揺れた。焼け跡の面影が残る中、「鉄の街」の芽は育った。

 製鉄工場の誕生は一筋縄ではいかなかった。連合国軍総司令部(GHQ)が「軍港復活」を危ぶみ、難色を示したからだ。当時の呉は失業問題が深刻で、大規模事業所の誘致を何としても実現させたいと、呉市も交渉に加わった。日亜が許可を得るまでに7カ月かかった。

 稼働当初の従業員は千人余り。山本さんは「労働環境は厳しかったが、仕事があるだけありがたかった。誰も文句を言わず、よく働いた」。工廠跡地には、地元の中国工業や寿工業なども進出。一帯で雇用の受け皿の役割を担った。

 59年、日亜は日本鉄板と合併し、日新製鋼となる。仲介したのは「八幡製鉄という共通の偉大な親分」(日亜製鋼五十年史)。呉工場の技術者は八幡製鉄所(北九州市)で研修し、62年に高炉を稼働。地域の産業のシンボルとなった。(東谷和平)

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 前身を含め、製鉄所として70年の歩みを刻む日本製鉄瀬戸内製鉄所呉地区。9月末の高炉休止が迫る中、地域とともに歩んだ歴史を資料や関係者の証言でたどる。

(2021年9月1日朝刊掲載)

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