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連載・特集

緑地帯 西井麻里奈 声を読みとく⑥

 その揺れが私だけに到達したものではないと気付くまで、随分と間があった。東日本大震災が起きた2011年3月11日、私は大学在学中で名古屋にいた。

 帰省中の友人の家が福島にあることが、私のわずかな「東北」との縁だった。彼女と連絡が取れないまま、震災の翌日はアルバイト先の家電量販店で、「何らかの爆発的事象」を起こした福島第1原発の映像を流す大型テレビに四方を囲まれていた。ようやく連絡が通じた時、彼女は関東の親戚を頼って福島を離れていた。

 ある場で震災当時の体験を語った時、彼女は落ち着いて話をするために原稿を持ち、読み上げに徹した。だが、避難することを決めて家族と離れ、飼っていた3匹の猫を置いていったことを語ろうとして、言葉が出なくなった。

 事故後、これまでに9基の原発が再稼働した。2020年の東京オリンピック開催も決まった。そうした時間の中でも、残った悲しみは、ふいに出てきて彼女の言葉を喉元でねじ切ったのだった。

 私は広島で、原爆と復興の双方で生じた「人の居場所を奪う力」について考えてきた。福島が直面した震災と原発事故、復興、時間の経過―。それぞれの被災の記憶と現実を生きる者が、日々の選択を迷い佇(たたず)んだ道のりを、「自己責任」と一蹴する力は今、誰の居場所を奪うのだろう。

 ヒロシマとフクシマを、ただ並べるのではない。それぞれの経験を考え直し、なお取り残されたもの、ねじ切られた声をひらく言葉が必要だ。それは、過去の復興の「成果」を語る言葉ではないはずだ。(現代史研究者=大阪府)

(2019年3月13日朝刊掲載)

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