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連載・特集

緑地帯 「学都広島」の残像から 小田智敏 <2>

 1935年、憲法学者の美濃部達吉らの学説が「不敬だ」として排撃される天皇機関説事件が起こる。政府は国体明徴声明を出して機関説を退け、37年、「国体の本義」と題する冊子を文部省から発行。東京・京都の両帝国大と、東京・広島の両文理科大に「国体学講座」を設置して応える。

 事件は、満州事変以降の日本の国際的孤立に対する国民の不安感と、その裏返しの優越感によって引き起こされたと見ることができる。君主を国家の最高機関とする天皇機関説は、西洋法学による立憲君主制の常識的解釈だが、国民は「我が国体」が「万邦無比」と示してほしかったのだ。これは、外国人に「日本スゴイ」と言わせるテレビ番組があふれる現在と、どこか重なるようでもある。

 ここでいう国体は、19世紀の水戸学に起源を求めることができるが、明治以降、政府が大衆を一つの国民に統合するために引っ張り出した言葉であり観念といえよう。時々の政治権力(政体)は移り変わっても、万世一系の天皇がこの国を治めるという国体に変わりはない、とされる。政府は天皇の各地への「巡幸」や、学校での教育勅語奉読などを通じ、国体観念の定着を図っていった。

 先述の4大学のうちでも、国の要請を正面から受け止め、翌38年から国体学専攻までつくり、学生を養成したのが広島文理科大だった。これは、同大が軍都広島の研究教育機関であったことに加え、1902年以降、広島高等師範学校と同大の倫理学教授を歴任した西晋一郎の意向が強く反映したと思われる。(大学講師、哲学研究=広島市)

(2018年12月1日朝刊掲載)

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