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連載・特集

緑地帯 「学都広島」の残像から 小田智敏 <3>

 広島文理科大の国体学教室を支えた西晋一郎は、ファナティックな「天皇信者」などではない。教え子たちの回想を見る限り、浮かび上がるのは地味な学究肌の倫理学者であり、強靱(きょうじん)な思弁の人である。暴力による強制を何よりも嫌ったであろうし、軍国主義の対極にいるような人物だ。

 西の考えでは、天皇と国民は、親子関係でもあれば君臣関係でもある。親が子に慈愛を注げば、子は孝でもって応え、君が義をなそうとすれば、臣は忠でもって応える。そこに支配も強制もない、あってはならない。

 とはいうものの、世は往々にして、忠ならんと欲すれば孝ならず。人は両立しない複数の道義があるからこそ苦しむのではなかろうか。西の国体学は、忠孝一致は我が国の歴史が示している、として問題を認めない。それでは、この国の歴史の歯止めのない正当化に陥らないだろうか。

 西の哲学で興味深いのは、君主と法の関わりについての議論だ。天皇が厳父として法を実行しながら、時に「非常の大赦(罪や刑の免除)」を与えるところに、その究極の面目を見る。これは、非常事態を決定して法を停止するところに真の国家主権をみるドイツの哲学者カール・シュミットの議論にも通じる。

 国家主権の究極は、法を全面的ないしは部分的に停止するところにあるという指摘は、国家権力がよって立つはずの法的基盤の危うさを思い起こさせてくれる。政治家が非常事態や緊急事態を口にするとき、私たちはよほど警戒しなければならない。(大学講師、哲学研究=広島市)

(2018年12月4日朝刊掲載)

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