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連載・特集

緑地帯 「学都広島」の残像から 小田智敏 <4>

 広島文理科大で国体学を講じた西晋一郎は、旧憲法で大日本帝国の統治者とされた天皇が、罪を犯した「臣民」にも慈愛を注ぎ、恩赦を与えるところに究極の面目を見た。この時、西の念頭には具体的な事例があったのではないかと私は思う。時期から見て、大逆罪に問われた金子文子と、恋人・朴烈(パク・ヨル)への恩赦である。

 1923年9月、関東大震災後の混乱に乗じてアナキストの大杉栄と伊藤野枝、まだ幼い大杉のおいが憲兵に虐殺されたことはよく知られている。同じ時期、文子らも危険思想の持ち主として「予防検束」された。当初、爆発物取締罰則違反で起訴されたが、大逆罪に切り替えられ、26年3月、2人に有罪判決が下る。

 旧刑法にあった大逆罪は、天皇や近親に「危害ヲ加ヘ又ハ加ヘントシタル者」の罪で、死刑しかない。2人が天皇制反対の思想を抱いていたことは疑いないが、計画に具体性はなかったとされる。当時の若槻礼次郎内閣は、上奏して無期懲役への恩赦の手続きをとり、耳目を集めた。

 ところが当の文子は、天皇の名によるその特赦状を刑務所長の目の前で破り捨て、直後に移送された刑務所で獄死する。首をくくっての自裁だったとされる。

 文子が特赦状を破り捨てたことは、政府の責任が問われかねないとして秘匿され、関係者の証言によって世に知られるのは45年の敗戦後。西は、敗戦を予感しつつ43年に没している。自らの国体学思想を文字通り、命を懸けて拒否した女性がいようとは、思いも寄らなかったのではないか。(大学講師、哲学研究=広島市)

(2018年12月5日朝刊掲載)

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