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連載・特集

緑地帯 「学都広島」の残像から 小田智敏 <5>

 後に戦後を代表する政治学者となる丸山真男は、広島で原子爆弾の被害を目の当たりにしている。東京帝国大法学部の助教授在任中に臨時召集され、1945年の夏は、宇品の陸軍船舶司令部参謀部で情報収集や分析に当たっていたという。

 丸山は被爆体験について、あまり乗り気でなさそうに中国新聞記者のインタビューに応じているくらいで、ほとんど書き残していない。しかし、46年に発表された著名な論文「超国家主義の論理と心理」には、その体験を含め、戦中への深刻な反省がにじみ出ているように思われる。

 丸山は、日本のどこが「超」と形容される行き過ぎた国家主義だったのかと問い、国家が道徳や倫理の内容まで決定していたことだと指摘する。欧州の国家は、教会との長い闘いの末、人々の内面的価値観には踏み込まず、行動のみを問う法制度を整えて近代国家となった。だが、大日本帝国憲法を発布して近代国家の体裁を整えた日本は、教育勅語に代表されるように、倫理規範までを国(天皇)が定めることとした。

 広島文理科大の教授で、軍都かつ学都だった広島を象徴するような西晋一郎の国体学には、忠ならんと欲すれば孝ならず、という嘆きはなかった。忠孝が一致しないのは個人の内面から考えるからで、国(天皇)を中心に考えれば忠孝は一本の道にまとまる。

 丸山は、専門の東洋政治思想について西の著作を引用しているが、国体学への言及はない。しかし、国体学の成り立つ前提を痛烈に批判しているのは確かである。(大学講師、哲学研究=広島市)

(2018年12月6日朝刊掲載)

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