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連載・特集

緑地帯 「学都広島」の残像から 小田智敏 <6>

 戦前・戦中の「学都」広島で重きをなした西晋一郎。同じく倫理学者で戦後、「平和都市」広島で重きをなしたといえば、森滝市郎(1901~94年)であろう。核実験が行われるたび、原爆慰霊碑前で白髪をなびかせ抗議の座り込みをする姿は、被爆地広島を代表するようであった。

 森滝にとって西は、母校であり勤務先ともなった広島高等師範学校で教えを受けた恩師であり、妻の父でもある。森滝も戦中は「皇国日本」の大義を信じて教育に従事したというが、原爆に遭って右目を失う体験を経て、自分の過去を厳しく問いただす。人類を核戦争による破滅に導きかねない「力の文化」に対し、愛を原理とする「慈の文化」を説き、反核平和の運動に身をささげていく。

 森滝の運動の出発点は、原爆孤児を精神的、経済的に有志で支えようという「広島子どもを守る会」の活動である。のちに率先していく原水爆禁止運動に比べると目立たないが、その思想的意味は大きいと思う。

 私たちが口にする「被爆者」という言葉は、言葉自体としては「爆発を被った人」を意味する。森滝はこの言葉を「気に入らない」とも語っていて、その趣旨は、原爆に直接遭った人だけを援護対象とするような政策への批判であり、原爆で親を失った子どもたちは原爆被害者ではないのか、との提起だった。目に見えない放射線の脅威についても、森滝は鋭い感性を持ち続けた。

 森滝の思想には、戦争被害者が連帯して国家の責任を追及する可能性がはらまれていた。(大学講師、哲学研究=広島市)

(2018年12年7日朝刊掲載)

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