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連載・特集

緑地帯 「学都広島」の残像から 小田智敏 <8>

 平和記念公園(広島市中区)の原爆慰霊碑前に立つと、視線の先には平和の灯(ともしび)、原爆ドームが一直線上に見える。その軸線は、背後の原爆資料館や噴水へも貫かれていく。戦前に旧制広島高(現広島大)でも学んだ建築家、丹下健三が設計した。

 軸線が貫くこのデザインは、戦時下の1942年、丹下が富士山麓を念頭に作成した「大東亜建設忠霊神域計画」と近似することが知られている。実現はしなかったが、「大東亜共栄圏確立ノ雄渾(ゆうこん)ナル意図ヲ表象スル」プランを募った日本建築学会のコンペで1位になった。平和記念公園の極度に象徴性を帯びた空間には、その残像を指摘できるのである。

 45年の敗戦を挟み、軍都から平和都市へ生まれ変わった広島。その中心に位置する公園にあって、丹下の軸線は「忠霊神域」と「慰霊の空間」、戦前と戦後をも貫くように走る。国体学で知られた西晋一郎を恩師とし、戦後は平和運動を率先した森滝市郎がその軸線上に座り込んだ姿から、私は考えを巡らせ続けたい。

 私たちはいつの間にか、平和記念公園を「聖地化」し過ぎていないかと問うてみるべきなのかもしれない。原爆に被災し、公園ができる前の51年に世を去った作家・詩人の原民喜は、「ヒロシマのデルタに/若葉うづまけ」と歌った。広島市が広域化し、デルタ=三角州の呼称はあまり聞かれなくなったが、私には、蛇行する幾つもの川がつくるデルタに渦巻く若葉こそ、平和都市広島のイメージにふさわしく思われるのである。(大学講師、哲学研究=広島市)=おわり

(2018年12月11日朝刊掲載)

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