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連載・特集

緑地帯 パレスチナに学ぶ 田浪亜央江 <4>

 イスラエル建国とパレスチナ人の難民化の年である1948年。日本と植民地の関係についても、この年に焦点を当てることで、現在につなげて見つめ直すことができないだろうか。

 それまでパレスチナで植民地政策を進めていた英国の委任統治は、48年以降、シオニズム運動によって先住のパレスチナ人を排除したイスラエルの統治に取って代わった。他方で朝鮮半島では、この年、日本の植民地政策とその破綻の帰結として、大韓民国と朝鮮民主主義人民共和国という二つの国が成立した。

 第2次世界大戦での日本の敗戦をもって、その前後で歴史を断絶して捉えてしまうと、植民地の記憶は切り捨てられ、在日朝鮮人の存在も見えにくくなってしまう。原爆投下前の44年には広島県内に8万人以上の朝鮮人がいたとする当時の内務省の資料があり、被爆時には約5万人が広島市内にいたとの推計もある。原爆を投下したのは米国だが、朝鮮人の被爆に乏しい関心しか寄せてこなかったのは戦後の日本社会だ。

 原爆投下とショアー(ナチスドイツによるホロコースト)という大量殺戮(さつりく)の記憶から、日本とイスラエルが被害の歴史を共有していると捉えられることがある。しかし被爆したのは日本人だけではないし、ショアーはイスラエル建国以前の出来事で、犠牲となったのはユダヤ人だけではない。

 死者たちを「国民」という観念にくくり付け、「今日の繁栄」のために彼らの死があったかのように語ることは、国家による死者の利用でしかない。(広島市立大准教授=広島市)

(2018年8月23日朝刊掲載)

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