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連載・特集

緑地帯 パレスチナに学ぶ 田浪亜央江 <5>

 イスラエル建国に伴うパレスチナでの「民族浄化」は、1948年5月の出来事として終わらなかった。建国直後のイスラエルは、難民となった元の住民が帰還できないように村を封鎖し、破壊した。パレスチナの地名を聖書に由来するものやヘブライ語風のものに変え、かつての暮らしの痕跡を消した。歴史学者イラン・パペは、これをメモリサイド(記憶の抹殺)と呼んでいる。

 パペの「パレスチナの民族浄化」の翻訳刊行を機に今年3月、筆者は「東アジア/広島でイラン・パペを読む」という小さなイベントを企画し、広島の朝鮮人の歴史を調べてきた権鉉基(コン・ヒョンギ)さんをゲストの一人として招いた。パペの指摘から連想したこととして、権さんは戦後の広島で行われた河岸緑地事業に触れた。在日朝鮮人が集住した河川敷の住居は、「不法建築物」として繰り返し立ち退きに遭い、「平和都市」としての街の再創造とともにその痕跡は消されていったのである。

 被爆当時、広島市内には約5万人の朝鮮人がいたとの推計があり、平和記念公園内の「韓国人原爆犠牲者慰霊碑」には死者「2万人余」と表現されているが、あくまで推定でしかない。当時「日本人」とされていた朝鮮人の死者数を正確に知るすべがないことの中にこそ、植民地主義のありようが示されているだろう。

 「記憶の抹殺」によって見えなくされていった朝鮮人被爆者らの歴史に思いをはせ、ヒロシマを「日本人の物語」から解放してゆく文脈の中に、広島とパレスチナを比較する意味が見えてくる。(広島市立大准教授=広島市)

(2018年8月24日朝刊掲載)

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