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連載・特集

緑地帯 パレスチナに学ぶ 田浪亜央江 <6>

 2002年12月、当時は自分が将来広島に住むことなど思いもしなかったが、広島の被爆者と初めて会った。イラクでのことだ。

 イラクが大量破壊兵器を隠し持っていると米国が主張し、戦争開始が現実に迫っていた時期である。平和活動家やジャーナリストが世界中から集まっていた。筆者は知り合いのフリーカメラマンに声を掛けられ、市民イラク訪問団に通訳として同行した。

 1991年の湾岸戦争で米軍が使った劣化ウラン弾の被害がようやく知られるようになり、それを探ることが主目的だった。まき散らされた放射能汚染のため、湾岸戦争時には生まれてもいなかった子どもの間にも被害が広がっており、むごい症状で苦しむ人々を目にした。広島の人たちの敏感な反応は印象的だった。

 一方、広大で豊かな大地に生きるイラク人のたくましさ、寛大さ、子どもたちの明るさには圧倒された。この地が再び戦場になるとは考えたくもなかったが、03年3月に米国は英国などと攻撃を開始し、7年半にわたり泥沼の戦争を続けた。イラクの自然も文明も、人々の快活な表情も、すべて破壊した。大量破壊兵器は結局、発見されなかった。こんな途方もない犯罪が、どうして追及されないまま放置されているのか。

 14年6月「イスラム国(IS)」を宣言した集団は、泥沼状態のイラクから生まれたモンスターだった。米軍などの占領下で広がっていった無秩序と暴力の中で、ISの支配によって秩序が取り戻せると誤った期待を持つ人がいたのも、無理のない話だった。(広島市立大准教授=広島市)

(2018年8月25日朝刊掲載)

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