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緑地帯 軍歌の本を書いた理由 小村公次 <3>

 萩原朔太郎は自らマンドリンを演奏し、レコードをたくさん買い、音楽会に通うなど、当時としてはとびきりの西洋音楽通だった。先述したエッセーで、彼は「雪の進軍」の音楽的特徴について「馬鹿囃子(ばかばやし)の旋律を主調に取つて、洋楽風のシンコペーションに作曲したもの」と書いている。当時の軍歌は、民謡風の旋律と西洋音楽の形式とをミックスしたスタイルで作られていた。

 箏曲家で日本画家の鈴木鼓村は東京朝日新聞連載の「学堂茶話」というエッセーで、「『雪の進軍』程の砕けたものさへ、兵卒の大部分には効がなかつた」(1908年8月5日付)と書いている。つまり、「雪の進軍」は他の軍歌と比べるとまだ歌いやすかったが、それでも兵士の大部分は歌えなかったのである。西洋音楽になじみのなかった当時の人々にとって、軍歌を〝正しく〟歌うことは難しかったと思う。

 父が小学校に入学したのは1910(明治43)年だが、学校で唱歌が必須の教科となったのはその3年前からだった。もちろん必須教科になったからといって、全員がすぐに〝正しく〟歌えるようになったわけではないし、〝とんでもない調子はずれ〟で軍歌を歌っていた父にとって、西洋音楽は不得意だったと思う。

 一方、次姉が小学校に入学したのは42(昭和17)年で、その前年から小学校は国民学校となり、唱歌は芸能科音楽と改称され、その「指導精神」では「すべてが皇国の道に通じ、皇運の扶翼のためにおこなわれなくてはならない」という時代になっていた。(音楽評論家=千葉県)

(2018年6月5日朝刊掲載)

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