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連載・特集

緑地帯 軍歌の本を書いた理由 小村公次 <4>

 父が軍歌を〝正しく〟歌えなかったのに対し、姉たちは学校で習った歌やラジオで聴いた歌を、家でよく歌っていた。明治生まれの両親と、昭和戦前生まれの姉たちとでは、音楽環境が大きく異なっていた。

 次姉が、父の歌う「雪の進軍」が〝とんでもない調子はずれ〟だと気づくのは、学校での音楽教育も関係していたと思う。国民学校での音楽教育は、単なる音楽技能の修練ではなく、「国民的情操の醇化(じゅんか)」に役立つことが求められた。国定教科書で、音楽鑑賞の重視や器楽指導の追加、楽典(楽譜の読み書きといった基礎的な音楽理論)などの指導が行われた。

 特に重視されたのが「イロハ音名唱」と「音感教育」だ。前者は、「ドレミ」が敵性語で皇国民錬成の音楽教育にふさわしくないという軍部の圧力で実施されたが、実際はうまくいかなかった。

 後者は、絶対音感を身に付けることが戦争に勝つために必要である、という平出英夫海軍大佐の「理論」によるものだった。国民学校令の施行規則には「発音及聴音ノ練習ヲ重ンジ」「鋭敏ナル聴覚ノ育成ニ力(つと)ムベシ」と定められた。絶対音感については、1998年刊行の最相葉月著「絶対音感」が話題となり、現在でもさまざまに論議されているが、実は戦前にそのルーツがあった。

 もっとも、当時は音感教育=絶対音感の体得と単純化され、敵の飛行機の爆音を聴いただけで機種などを識別する能力の養成が目的とされた。平出大佐の「音楽は軍需品なり」という言葉は、戦時下の流行語となったのである。(音楽評論家=千葉県)

(2018年6月6日朝刊掲載)

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