×

連載・特集

緑地帯 軍歌の本を書いた理由 小村公次 <5>

 「イロハ音名唱」は、当時からひどく不評だった。作家の山中恒は、「初等科一年に入学した弟が、『ヒノマル』を「ヘヘトトイイト、イイハハニニハ、ニニハハイヘト、ハハイヘトイヘ」とやるのを聴いて、なんだか屁(へ)をして笑っているみたい」とからかって母親に𠮟られたと、著書「ボクラ少国民と戦争応援歌」に書いている。

 音楽教育学者の供田武嘉津も「コールューブンゲンを『イロハ』で唱(うた)わせてみたが、たちまち生徒の嘲笑に遇(あ)い、二回位で打ち切ってしまった」と、「日本音楽教育史」で回想している。

 1941(昭和16)年、文部省は「聴覚訓練準備調査会」を設置し、「イロハ音名唱」の代案を審議したが、結局、妙案は得られなかった。このことを調べている時、調査会の委員の一人が橋本清司先生だったことを知って驚いてしまった。

 というのも、私が入学した広島大教育学部の高等学校教員養成課程音楽科で、音楽美学の講義を担当していたのが橋本先生だったからである。当時の私は戦前の音楽教育について全く関心がなかったので、そうした事情など知る由もなかった。

 先生は1906(明治39)年のお生まれで、調査会の委員だった頃は東京府立第一高等女学校で教鞭(きょうべん)を執っておられた。戦後は広島大教授として活躍され、70年に退官後は大阪芸術大教授、音楽教育学科長を務められた。

 拙著執筆の頃、先生は既に他界されていた。当時のことを詳しく聞いておけばよかったと、悔やまれてならなかった。(音楽評論家=千葉県)

(2018年6月7日朝刊掲載)

年別アーカイブ