×

連載・特集

緑地帯 軍歌の本を書いた理由 小村公次 <8>

 「軍艦マーチ」を流し始めたとされるパチンコ店の「メトロ」があった東京・有楽町の近くに、数寄屋橋があった。今は埋め立てられて往時の面影はないが、そこを定位置にして、右翼活動家の赤尾敏が辻(つじ)説法をしていた。

 私がその演説を耳にするようになったのは、大学を卒業して高校の音楽教師となった1971(昭和46)年以降のことで、その頃の彼は街宣車の上で椅子に座って演説していた。両脇には、日の丸と星条旗の旗が立っていた。

 その街宣車から大音量で流れてくる軍歌に辟易(へきえき)したことを覚えている。親米反共の毒々しい演説の前後に流れる軍歌は、強烈なインパクトがあった。たぶん、この頃から軍歌に対する嫌悪感を抱くようになったと思う。

 それまでの軍歌に対するイメージは、白衣の傷痍(しょうい)軍人の弾く物悲しい響きであり、「戦友」の哀感であり、いわば喪失の響きだった。拙著を書きながら強く感じていたのが、軍歌を貫くこの喪失の響きだった。

 それは、死を不可避として受け止めるものであり、特に昭和時代になると、戦意高揚と表裏一体に死を美化する軍歌がたくさん作られ、映画やラジオを通して盛んに流されるようになった。

 今振り返ると、赤尾敏の街宣車から流れる軍歌は反面教師としての役割を持っていたと思う。そして、嫌悪感で済ませていた私にとって、拙著執筆は音楽とそのあり方について深く考える機会を与えてくれた。だからこそ、軍歌を高唱する時代だけはまっぴら御免である。(音楽評論家=千葉県)=おわり

(2018年6月12日朝刊掲載)

年別アーカイブ