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連載・特集

緑地帯 神内有理 文化の地層 観古館 <3>

 原爆により焼失した観古館だが、旧広島藩士・槇田直太郎「観古館」(1916年)や、戦前の絵はがき・ガイドブックなどに往時の優美な姿を見ることができる。

 観古館は、1424坪の敷地に、横一列に並んだ瀟洒(しょうしゃ)な3棟の洋館から成る。総工費は4万1181円。中央は事務室、その左右が一号館、二号館と呼ばれる2階建ての展示棟で、各50坪の展示室には常時300点前後の作品が陳列された。広島県立美術館で開催する所蔵作品展での出品数が120点程度であることを思えば、いかに観古館が大規模な美術館であったかがうかがえよう。

 また、展示品は、鎧(よろい)や刀剣類、書画、文房具、茶道具、印籠や楽器など、大名道具全般にわたっており、大名家の文化を余すところなく鑑賞できる常設の施設であった。「浅野家の至宝」展でも、多くの人々がその素晴らしさを語ったが、当時の人々の驚きはいかばかりであっただろう。

 さらに、この美術館が一部の人に向けてのものではなく、一般に開かれた美術館であった点も画期的であった。門番に名刺を出して観覧券を受け取り、入館する仕組みがとられたが、その手続きさえとれば誰もが無料で入館できた。なお、川崎美術館では観覧券の購入(推定)、大倉美術館では知人の紹介を必要とした。観古館の公共性の高さは特筆に値する。

 それにより、観古館には、開館から2年半の間に15万人以上が訪れた。今でいえば100万人以上が訪れた計算になり、観古館が当時の広島に与えた影響の大きさを想像させる。(広島県立美術館主任学芸員=広島市)

(2020年8月22日朝刊掲載)

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