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連載・特集

緑地帯 神内有理 文化の地層 観古館 <4>

 観古館は、広島の文化にどのように貢献したのだろうか。開館を伝える当時の新聞や雑誌にはその意義がさまざまに語られている。

 「陳列せられたる宝器に付、相当に之を受容るべき鑑識の眼をも、備へん覚悟ありたく、此点よりして学校児童等の為にも、之を見学資料の一となす事、蓋し最も適当ならん」(「芸備日日新聞」1913年10月12日)と、鑑賞力を養う場として、特に子供たちへの教育的機能を期待する声や、「歴史學よりも、工藝上よりも參考資料となる可きものある」(「中国新聞」同年10月11日)と、工芸制作や歴史研究上の有益性を強調する意見もあった。さらに、郷土史研究を目的とした広島尚古会の機関紙「尚古」でも、「美術品として鑑賞の価あるのみならず、歴史上の参考に資すべきもの多し(中略)広島の地に取りて大なる恩恵といふべし」(同年11月)と、歴史研究と鑑賞双方の視点から称賛されている。美術館や博物館の存在を自明とする今の私たちからすれば当然のことばかりだが、広島においては全てが初めての試みだった。

 さらには、縮景園も一般に開放された(それまでは年2回、広島市民のみに公開していた)ことから、「吾徒が市民の為に、又本市に入込む旅客の為に、最も同慶に耐へざる所なり。斯くて広島市はその市容の改まりたると共に、侯爵家の時代に適応せる施設に由りて、少からず面目を施した」(「芸備日日新聞」同年10月20日)と、観光的な視点からもその価値が認められた。観古館は広島自体のイメージを変える程のインパクトをもって登場したのである。(広島県立美術館主任学芸員=広島市)

(2020年8月25日朝刊掲載)

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