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連載・特集

緑地帯 神内有理 文化の地層 観古館 <5>

 観古館の存在は、広島にとどまらず全国的にも大きな意味をもっていた。そのことを、大正6年9月に観古館を訪れた三井財閥の大番頭で、近代数寄者として知られる高橋箒庵は次のように語る。

 「天下幾多の好古家工芸家を啓発するの功徳鮮少に非ず且つ世の名器を収蔵する旧大名に対して、如何に之を利用すべきやの実例を示されたるは、余等の賞賛措く能ざる所なり」(大正6年9月28日「東都茶会記」)

 当初より、観古館の教育的意義や、開かれた公共性を高く評価する声はあった。さらに、ここでは所蔵家による美術品の活用のあり方自体が賛美されている。

 箒庵の言葉は、旧大名家の所蔵品をめぐる当時の社会状況を踏まえてのものだろう。前年の大正5年は、華族世襲財産法の改正があった。それを契機に、華族が所蔵する美術作品等の売却が可能となり、旧大名家による美術品の売却(売立)が活発になった。ちょうど、箒庵が観古館を訪ねた約1カ月後には、旧秋田藩主・佐竹家の売立が行われ、佐竹本として知られる「三十六歌仙絵巻」(のちに分割、軸装され、37幅のうち32幅が重要文化財に指定された)が売却された。その中で、浅野家は作品を手放さず、広島の人々のために公開する道を選んだのである。

 旧佐賀藩主・鍋島家の徴古館設立は昭和2年、尾張徳川家の徳川美術館設立は昭和10年で、管見の限りでは、観古館の設立は旧大名家の美術館としては最も早い。その点からも、観古館の存在は今一度、見直されるべきだろう。(広島県立美術館主任学芸員=広島市)

(2020年8月26日朝刊掲載)

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