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緑地帯 神内有理 文化の地層 観古館 <6>

 そもそも、なぜ浅野長勲は美術館の設立を思い立ったのだろうか。長勲は開館式の告辞の中で、その目的を「弘く美術參考一助の資に供せん」と語った。その伝記にも、「幾多の公衆に縦覽せしめなば智識を勸むる研鑚の具とも社會を益する參考の料ともなる」(「坤山公八十八年事蹟」1932年)とあり、美術教育を目的とした社会貢献事業であったことが明記されている。

 しかし、長勲の孫で、東京国立博物館館長として戦後の美術界に大きな足跡を残した浅野長武は、長勲が美術に特別な関心を抱いていなかったと語る。その長勲が観古館を設立するに至った理由として、渡欧体験に注目したい。

 長勲は、明治15年6月から17年9月にかけて、全権公使としてイタリアに赴いている。長勲のイタリア滞在中の動向は、帰国後に発行された「海外日録」に記された詳細な日報からわかる。それによれば、2年3カ月の渡欧中、来賓への接応、式典への参列などの合間に、約70カ所の美術館・博物館を足繁く訪ねている。また、博覧会や美術学校などでの展示や、さまざまな宮殿に並べられた美術品をあまた鑑賞しており、さながら「海外日録」は長勲による「欧州美術紀行」の趣さえある。

 中でも長勲が感銘を受けたのはバチカンの美術館・博物館で、ダ・ヴィンチやミケランジェロの作品に感嘆し、「純美完全世界第一の博物〓と云へし」と語る。西欧における豊かな鑑賞体験が、美術館・博物館に対する認識を形作っていったであろうことが推察されるのである。(広島県立美術館主任学芸員=広島市)

(2020年8月27日朝刊掲載)

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