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連載・特集

緑地帯 神内有理 文化の地層 観古館 <7>

 浅野長勲が滞欧していた19世紀後半は「博覧会の時代」といわれる。各国が科学や産業技術を競うとともに、新たな美術や工芸が花開いた。長勲は、産業デザインの向上を目的に設立されたサウス・ケンジントン博物館(現ヴィクトリア&アルバート博物館)を訪ねた時の日誌には、博物館に殖産興業のための美術教育の役割があることを記している。

 また、欧州の美術館や宮殿で日本美術を目にしたことは、日本文化の価値を再認識する機会になっただろう。なかでも、ウィーン美術アカデミー付属美術館で見た日本の古美術品に対し、「我か國古代の美術品歐州に載去せるもの多しと聞く茲に至て倍々其信なるを知る」と語っていることは重要である。明治初期、廃仏毀釈(きしゃく)によって日本の古美術品が遺棄、海外に多く流出したことを機に、政府は文化財保護のための法整備を進めた。長勲が同館で見た古美術作品は、明治以降に収蔵されたと考えられることから、長勲は日本の文化財の海外流出に問題意識を抱いていた可能性がある。

 さらに、イタリア美術に対し、「(1500年ごろから)國力次第に衰微せり然れとも美術の進歩は益著名なるか故に國の名譽は敢て失墜せさりしと云ふ」と記していることから、美術がそれを生み出した国家の威信にかかわること、つまり近代国家の証明、アイデンティティーとなりうるものとして認識してもいたように思われる。

 従って、明治初期に極めて稀な豊富な美術体験を得ていた長勲による観古館設立には、民衆への教育効果の他、文化財の保護、旧藩の威信を伝えるなど目的があったと想像できるのである。(広島県立美術館主任学芸員=広島市)

(2020年8月28日朝刊掲載)

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