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連載・特集

緑地帯 神内有理 文化の地層 観古館 <8>

 観古館は、大正2年からの約30年の間、存在した。その間、大正13年に「浅野観古館」と改称、昭和14年には浅野家から広島県に泉邸(縮景園)及び陳列品を除いた観古館等の付属施設が寄贈された。昭和19年には「郷土館」と改称され、戦時色の濃厚な展示が行われた。同時期に24時間交代勤務でアメリカの対日謀略放送をキャッチする秘密組織の活動に使われていたとの証言もあり、いまだ不明な点が多い。

 観古館の存在が広島の美術界に与えた影響については、今後のさらなる調査研究が必要である。その中で、広島を代表する洋画家・靉光の研究に長年携わってきた藤崎綾・広島県立美術館主任学芸員の最新研究は先鞭(せんべん)をつけるものである。藤崎氏は、靉光が影響を受けたという中国・宋~元時代の絵画との接点を、従来の説に加え、観古館での鑑賞に基づく可能性を論じた(広島市現代美術館編「無辜の絵画」2020年)。観古館について調べていた村上勇氏(元広島県立美術館次長兼学芸課長)による指摘を、藤崎氏は資料をもとに丹念に論じ、その蓋然(がいぜん)性を高めた。靉光と観古館、一見無関係な二つに接点を見つけ、埋もれた地層から丁寧に掘り出したのである。

 原爆により、多くの文化が失われた広島。しかし、例えば、江戸以来の文化を明治・大正・昭和初期に伝えた観古館のように、かつての地層に眠る文化が存在する。それを掘り起こす地道な作業は、広島の文化を継承し、その未来への創造に向けた、広島県立美術館がなすべき重要な仕事だと思っている。(広島県立美術館主任学芸員=広島市)=おわり

(2020年8月29日朝刊掲載)

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