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連載・特集

緑地帯 岡村有人 私の比治山 <6>

 比治山が私たち団塊世代の遊び場として定着した頃、この山を市民の憩いの場として取り戻そうという動きがあった。展望台、登山道、広場などの整備が行われ、今の公園の原型が作られた。その頃にはアメリカによってABCC(原爆傷害調査委員会、現在の放射線影響研究所)が建てられ、モダンな「かまぼこ形」は子どもたちにもなじみのあるものになっていた。かまぼこ形は今もその頃のたたずまいで、訪れるとタイムスリップした錯覚を覚える。

 比治山には北と南に二つの頂があって、その形から臥虎山と呼ばれていた時期もあったと聞く。明治初めにこの南側のこぶを陸軍墓地として整備して以来公園となったが、ABCCを建設するに当たって墓地は移設を迫られた。

 私の記憶では多分小学2年生の頃からおよそ4~5年を費やしただろうか。探検ごっこをしていた子どもたちは、掘り返されたおびただしい量の遺骨を目撃した。後日、それは西南戦争から第2次大戦までに亡くなった兵士を弔うものであったと教わった。これらの遺骨を再び安置して完成したのが現在の陸軍墓地である。

 新たな陸軍墓地は「かまぼこ形」の東側に広島湾を望んで、ひっそりとたたずんでいた。当時、入り口として造作された礼拝堂を兼ねた空間は、此岸(しがん)と英霊たちが眠る彼岸を仕切る役割を担っていた。これをくぐって墓地に入ると俗世から隔離され、いつ訪ねても落ち着く場所だった。最近訪ねると、この空間は取り払われて、英霊たちの魂はまだ此岸をさまよっているかのようだった。(東京皆実有朋会会長=東京都)

(2019年4月26日朝刊掲載)

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