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連載・特集

緑地帯 岡村有人 私の比治山 <7>

 比治山の北の広場には戦前、御便殿と呼ばれる建物が立っていたと聞く。原爆で全て灰となり、頑丈な礎石のみが風化して残っていた。この広場は私が広島大在学中、陸上競技の自主トレの場として格好のもので、冬場には毎日のように足を運んだ。だからこそ50年経た今も比治山の隅々まで頭に刻まれている。石組みの礎石の近くに松の根っこが二つ、ちょうどスターティングブロック代わりになるようにうまく並んだものがあって、練習に供してくれた。

 この思い出の場所に今はまんが図書館が建っている。松の根っこも、もはやない。当時の比治山には車が走れる石畳の登山道が頼山陽の霊廟(れいびょう)がある麓の多聞院から延びていて、途中で二股に分かれて一方はABCC(原爆傷害調査委員会、現在の放射線影響研究所)に、もう一方は御便殿へと続いていた。この道を一気に御便殿まで駆け上るのも自主トレのメニューの一つであった。

 比治山の自然に包まれて走っていると、敏感に四季を肌で感じることができた。特に9月に入って突然に風が変わって秋の到来を知る。その話を皆実高の後輩の為末大君に話したら、「僕もよく比治山を走りました」と相づちを打ってくれた。世界的ハードラーも比治山とともに育ったのだ。

 私が皆実高生であった頃の1960年代前半には、学窓から比治山を望むことができた。秋の紅葉は、国語で習ったばかりのヴェルレーヌの詩「秋の日の ヴィオロンの ため息の 身にしみて ひたぶるに うらがなし」をほうふつとさせたものだ。(東京皆実有朋会会長=東京都)

(2019年4月27日朝刊掲載)

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