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連載・特集

緑地帯 樋口明雄 東京卒業 <3>

 3・11災害から日本という国は変わるはずだった。それまでの刹那的な経済優先主義を真摯(しんし)に反省し、過去を振り払って新しい未来に向かっていくと思っていた。

 ところが被災の教訓は封印され、虚栄の時代が訪れる一方で経済は冷え込んでいった。時代ばかりか人々の心も変わっていき、格差社会の中で勝ち組負け組という意識が根付いてしまった。

 かくいう私も変わった。いつまでも若いつもりのはずが、ふと気が付けば還暦手前となっていた。過去の思い出ばかりが走馬灯のように脳裏を巡る。歳をとればとるだけ未来は縮小し、昔の記憶にすがるしかないのだろうか。

 知人の名前が思い出せなかったり、ゆうべのおかずが何だったか忘れることもあるのに、なぜか40年前の出来事は昨日のことのように鮮明に記憶している。だからその頃の故郷が舞台の小説を書くのは難しくはなかった。思い出に浸りながら「風に吹かれて」の執筆を続けていた。

 一方で、こんな個人的な小説が果たして万人受けするのかという不安が付きまとっていた。

 ところが発売後の反響を知って驚いた。読者の方々が、小説の中の出来事を自分たちそれぞれの過去に重ねて読み、泣き笑いしたという。それも、老若男女を問わずである。田舎や地方で少年少女時代を送った人々のみならず、都会で育った読者の方々も、なぜか「読書中に懐かしい記憶や風景」がよみがえったという。

 ノスタルジーは個人だけのものではなく、万人が共有できる感情なのだと初めて知った。(小説家=山梨県北杜市)

(2019年5月16日朝刊掲載)

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