×

連載・特集

緑地帯 樋口明雄 東京卒業 <6>

 両親はともに大正生まれだった。父は海軍の一兵卒として戦場に送られた。母とは写真見合いで結婚したが、男尊女卑が当然のようにまかり通った時代だったため、父はしばしば母を罵倒し、平手ではたいていた。

 そんな父の暴力は、常に母にのみ向けられた。息子の私と口論になれば、決まって父は酒に逃げた。「お前も大人になればわかる」というのが口癖だった。

 極端な独善主義者であった父に対して、私は当然のように反発した。ある年の春、大げんかをやったあげく、私は家を飛び出し、ひとり東京に戻った。父の訃報を知ったのは、数年後だった。

 自分を誇示したがるくせに、母に対してしか威張れなかった父。それはおのれの弱さの裏返しだったと思う。あれだけさげすまれ、暴力をふるわれた母は、父が亡くなるとひどく寂しがり屋になり、父の面影ばかりを追っていた。けっきょく母も、そんな父にすがって生きていくしかなかったのだ。

 父の口から出る戦争体験は自慢話ばかりだった。そんな父に対し、一度だけ母がいったことがある。

 「あんとなつらい時代にまた戻りたいんかね?」

 母は若い頃、山の向こうに立ち上る広島のきのこ雲を見ている。

 父にとって戦争は勲章のようなものだった。しかし母はあくまでもひとりの市民として、あの過酷な時代を生き延びてきた。だからこそ出てきた言葉だったのだろう。父に殴られたあと、洟(はな)をすすりながら台所に立っていた母の後ろ姿を思うとき、なぜかいつも原爆のきのこ雲が重なってしまう。(小説家=山梨県北杜市)

(2019年5月21日朝刊掲載)

年別アーカイブ