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連載・特集

緑地帯 迫幸一を追って 戸田昌子 <5>

 迫幸一の写真は、海と山の写真文化圏で育まれた。迫が写真を教わったのは地元広島の写真家たちで、中国写真家集団(1937年設立)の正岡国男や上野正雄、広陽カメラ倶楽部(くらぶ)(49年設立)を主宰した秋田平八などである。

 中国写真家集団は、岡山の石津良介の呼びかけで作られた。正岡と上野は鳥取の植田正治とともに設立に参画している。50年代には愛媛県松山の新山清も交流を深めたといい、中国・瀬戸内を網羅する写真文化圏がそこにあった。

 「アサヒカメラ」60年11月号に掲載された迫の「海に繋(つな)がれた者」は、鹿児島・吹上浜で撮影された連作写真である。あられ交じりの冬の雨の中、サバ漁に出た漁民の群像が、詩情をもって捉えられている。過酷で豊かな海の労働を捉えるまなざしは、海の文化圏の写真家ならではだろう。

 迫をはじめ中国地方の作家たちの多くは、なぜ郷土のモチーフにこだわったのか。背景に、戦時中に中国写真家集団の作家たちが唱えた「ローカルカラー」がある。

 30年代後半、東京中心のプロの写真家たちは、国策に協力する報道写真に巻き込まれていった。そんな中で中国写真家集団の作家たちは、自己の芸術を守り郷土の風景に向き合う態度を、この言葉で表現したのだった。ローカルであること、アマチュアであること。自己の芸術を国家に売り渡さないためのぎりぎりの抵抗だった。

 迫の遺族の元には、植田から買い取られた大型カメラのリンホフが大切に保管されている。地方アマチュアの誇りは、植田から迫へと手渡されていたのではないだろうか。(写真史家=東京都)

(2018年7月21日朝刊掲載)

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