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連載・特集

緑地帯 迫幸一を追って 戸田昌子 <6>

 夜の街灯の光の中に、かまぼこ屋根の建物が浮かび上がっていた。ABCC、原爆傷害調査委員会。現在では日米合同の「放射線影響研究所」となっているが、その始まりは原爆の後遺障害調査のため、広島市の比治山に設置された米国の施設である。

 原爆投下時、迫幸一は広島市内で被爆し、母の胎内で長男の青樹(せいじゅ)さんも被爆した。青樹さんは毎年、迎えの車に乗せられて「健康診断」のためABCCまで連れてこられたが、なんの治療もされなかったという。

 青樹さんは、鳥のように良い声をもっている。そのため歌手への誘いもあったが、「父親のような芸術家にはさせない」という母の猛反対により断念。息子を写真家にしたいという父の願いも、同じ理由で断念させられている。私からみれば、写真にのめり込む夫を間近で見ていた妻が、写真家を芸術家であると認識していたその事実がむしろほほ笑ましい。

 迫には原爆ドームを撮影した多くの写真がある。「怨念の風景C」(1953年)は、雨を強調するためローライフレックスのレンズにパラフィン紙を当てて撮影された。雨にかすむ原爆ドームの幻想的な姿は、幾度となく時間を巻き戻しながら、その日そこで起こった、写真には記録されなかった出来事を呼び覚まし続けている。

 2017年12月、青樹さんは核兵器廃絶国際キャンペーン(ICAN(アイキャン))へのノーベル平和賞授賞式に立ち会うため、ノルウェーのオスロにいた。迫が伝えたかったことと受け継がせたくなかったものについて、私はしばし考えていた。(写真史家=東京都)

(2018年7月24日朝刊掲載)

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