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連載・特集

緑地帯 梟の眼と愛 出原均 <2>

 志條みよ子さんは広島の文芸において語られる人でもある。小説、随筆をものした文筆家で、1953年から女性の同人誌「女人文藝」を主宰した。同年初めには、論争のきっかけとなった一種の原爆文学批判を中国新聞に寄稿したこともあった。

 生活の上では、50年から広島市街の鉄砲町でマロニエという名のバーを営んだ。一時静養後、52年に立町の通称「なめくじ横丁」で再開。これが「酒場梟(ふくろう)」である。志條さんが営んでいた故か、詩人のさかもとひさしや画家の福井芳郎ら文化人のたまり場となった。

 さらに、骨董(こっとう)の希代の目利き、青山二郎が50年代半ばから毎年のように広島に滞在し、しばしばこの酒場梟を訪れた。志條さんへインタビューした時は、画家以上に青山のことを熱く語っていた。画廊を始める上で、青山の影響は大きかったと推察される。酒場梟を飾っていた青山自作の絵は今、アートギャラリーミヤウチ(廿日市市)での展覧会に並んでいる。

 画廊を開く夢を志條さんが実行に移したのが66年。40歳を過ぎていた。酒場梟を改装し、1カ月後に「画廊梟」をスタートさせた。酒場梟も芸術の雰囲気が漂っていたが、以後、生計そのものが芸術になったのである。

 画廊梟(85年に「画廊梟の部屋」へ改称)は二百数十本の展覧会を催した。しかし、バブル経済へ向かう80年代、なめくじ横丁は再開発に巻き込まれ、86年1月の展覧会が最後となった。画廊梟の部屋は作品とともに、佐伯区杉並台の転居先に置かれた。志條さんは最期まで画廊主だったのだ。(兵庫県立美術館学芸員=神戸市)

(2018年4月19日朝刊掲載)

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