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連載・特集

緑地帯 佐藤先生の光跡 古川修文 <1>

 毎年、8月6日が来ると日本国民はそれぞれの思いを抱くであろう。私は小学生の時に教師に引率されて見た映画「原爆の子」の情景とともに、原爆ドームを救った一人の学者を思い出さずにはいられない。故佐藤重夫広島大名誉教授である。私は日本民俗建築学会で16年間、佐藤先生の親炙(しんしゃ)に浴した。以下に敬称を略して佐藤先生を紹介したい。

 原爆ドームは過去何度か消失の危機を経て、今日に至っている。この建物は横からの力に弱い構造であった。そんな建物が骨組みの形で残ったのは、原爆が建物のほぼ真上でさく裂し、垂直に爆風を受けたからだと佐藤は指摘した。

 終戦後、広島市は進駐軍と共に倒壊物の爆破解体を進めていた。この建物も爆破する予定であったが、元安川河畔はバラックが立ち並び、人々が避難生活をしている。その真ん中でコンクリートを爆破できない。進駐軍の指揮官は除去を諦めたという。再び爆弾で破壊される危機は免れた。

 やがて平和記念公園が造られた。埴輪(はにわ)形の原爆慰霊碑を通した軸線の先に原爆ドームを望む構成であった。これによってドームは、鎮魂と平和を希求する祈りの対象になったのである。

 しかし、戦後復興が優先される中で原爆ドームの保守にかける余裕はなく、劣化するままになっていた。いつ崩れてもおかしくない状態であった。佐藤がこの修理に全力で取り組んだのは公園ができて10年近く後のことである。(ふるかわ・のぶひさ 元法政大教授=東京都)

(2018年3月3日朝刊掲載)

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