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連載・特集

緑地帯 佐藤先生の光跡 古川修文 <2>

 佐藤重夫は1912年1月に岡山県早島町に生まれ、旧制第六高等学校から東京帝国大建築学科に進んだ。34年に卒業し、現場の施工を学ぶ目的で東京の渡辺仁建築工務所に修業に入った。

 3年間の実務の後、修業の最後の仕事として、有楽町に建設中の第一生命ビルの内装設計を与えられた。ビルの6階は次期社長に決まっていた石坂泰三のフロアであり、執務室の他に応接室、会議室、和室などが付設されている。この全ての部屋の家具、照明器具、壁床の色彩など一切のデザインを任された。センスを求められ、しかも住む人の好みに最大限応えなければならなかった。

 38年12月、佐藤は全ての仕事を終えて翌年1月から逓信省の技師に転職した。石坂社長はこの部屋が気に入り、来客にも自慢したが、この執務室を使ったのはわずか6年余りであった。44年に入り陸軍が6階以上のフロアを接収し、社長室は参謀長が陣取ってしまった。石坂は5階の臨時の部屋に追われた。

 終戦直後からは連合国軍総司令部(GHQ)が接収し、社長室にはダグラス・マッカーサー最高司令官が入る。この部屋からは堀を隔てて皇居が見え、日本統治に最適な場所であり、何よりも部屋の居心地の良さに満足した。

 マッカーサーは、こんな建物を造り、こんな部屋に住んでいたのはどんな男かと関心を持ったが、石坂は会わなかったという。その頃、佐藤は逓信院に辞表を出して郷里岡山に帰り、野菜作りに専念していたから、マッカーサーのことは後で知った。(元法政大教授=東京都)

(2018年3月6日朝刊掲載)

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