×

連載・特集

緑地帯 佐藤先生の光跡 古川修文 <3>

 佐藤重夫が1939年に逓信省に入って最初の仕事は、航空機乗員養成所の建設であった。しかし徐々に耐爆施設の仕事が多くなり、44年には北千島にある幌筵(ぱらむしる)島に耐爆通信施設を造る仕事を命じられた。当時、千島列島は全て日本領であり、多くの人々が働いている最前線である。

 妻と2人の幼女を東京に残して2カ月の出張は不安だったが、軍の重要な任務に闘志を燃やした。6月6日、北海道の小樽を出航した輸送船高島丸で、6日かけて幌筵島に無事に着いた。しかし、その高島丸は小樽に帰る途中に敵潜水艦の攻撃を受けて撃沈されてしまったのである。

 島では、日本軍の飛行機が頼もしく爆音をとどろかせて訓練していたという。ただ、島の通信施設は無防備の状態であり、佐藤の仕事は一刻を争われた。耐爆通信施設といっても防空壕(ごう)を補強したようなもので、施設に適した場所の選定と資材の調達が困難であった。幸いに昼間は敵襲もなく、佐藤は施設場所を探し、資材調達に飛び回った。しかし真夜中は空襲警報で跳び起き、壕に逃げ込むことがほぼ毎日のように起きた。

 いろいろな困難を乗り越えて全ての任務を完了し、7月23日、メルボルン丸で小樽に向かった。途中、敵潜水艦警戒発令に緊張したり海上の監視に就いたり、臨戦の恐怖を経験しながら4日半かけて帰還した。佐藤が造った耐爆通信施設は、敵情報の探査や艦船との交信、本土との連絡によって多くの人々の命を救ったという。そして終戦による千島からの引き揚げで施設の任務は終わった。(元法政大教授=東京都)

(2018年3月7日朝刊掲載)

年別アーカイブ